天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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天正10年6月2日未明 本能寺の変 勃発

わずかな護衛とともに京都本能寺にいた信長を明智光秀率いる軍勢が襲った。

信長自害  大いなる油断。
明智の反逆を未然に察知できなかったのは、並みはずれた自信の強さ
無謀な、むしろ傲慢さに通じると言ってもよい己への過信か。

その時、安土城を設計施工した大工の棟梁・岡部又右衛門以言と
その子・以俊も本能寺に同宿していた為、信長に殉じて共に討ち死にする。

そして10日あまり後、天正10年6月半ば安土城中枢部に火の手があがり
天主は燃え落ち本丸御殿は灰燼にきした。

この為、安土城の独創的空間構成を可能にした技術のノーハウを後世に伝えることが不可能となった。

信長の死とともに、大いなる損失である。

 ★★★
1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。

その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。
原因にはいくつかの説がある。

一つは織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。
これは当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したとある。

もう一つは明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説、さらにもう一つは、略奪目的で乱入した土民が原因であるとする説である。

そのほか、雷が落ちて消失したとする説もある。

いずれにせよ、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能していた。

しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと伝わっている。

★★★

安土城を設計施工した大工の棟梁・岡部又右衛門以言

生年: 生年不詳
没年: 天正10.6.2 (1582.6.21)

室町・安土桃山時代の大工。
名は以言、七位上、修理亮。
『岡部家由緒書』によると、岡部家は室町将軍家の修理亮を勤めた家柄で熱田大工として活躍し以言も天正3(1575)年の織田信長の熱田神宮造営に被官大工として参加した。

『信長公記』には御大工岡部又右衛門の名が「安土山天主之次第」の項にみえ、安土城天守の造営にその子又兵衛以俊と共に参加している。

以俊の子宗光も又兵衛と称し、徳川家康の二条城造営などにかかわった。

以言は本能寺の変で子の以俊と共に戦死した。




                 (完)                          
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# by kenji1942 | 2011-02-12 10:11 | ブログ 信長
   
信長暗殺の首謀者は誰だ・・3

 光秀単独説

※土岐源氏の流れを称する光秀が、「平氏」を称しながら征夷大将軍任官の動きを見せる信長に危機感を持ち謀叛を決意した。

※安土城・総見寺において自らを「神」とする演出を始めた信長に対し、その狂気を除くために本能寺の変を起こした。

※天皇の外戚となる策謀を秘め、朝廷を凌駕しようとする動きを見せる信長を倒し、国体を維持する為に本能寺の変を起こした。近衛前久が黒幕であるとする説である。

※比叡山焼き討ち・一向一揆根切り等の残虐行為を続ける信長を許す事が出来なくなったので光秀が本能寺の変を起こす。

この諸説は資料的な裏付けは無く推測の産物である。
これら個々の原因が重複・作用しあって決起に及ぶに至ったとする説も無数の組み合わせで存在する。
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# by kenji1942 | 2011-02-11 21:54 | ブログ 信長
   フロイスの「日本史」・・本能寺

「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。
(中略)

明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真っ先に警備に当たっている守衛を殺した。

内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士達と奉仕する茶坊主と女達以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗するものはいなかった。

そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手ぬぐいで体を拭いている信長をみつけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀と言う武器を手にして出てきた。

そして暫く戦ったが、腕に銃弾を受けると自らの部屋に入り、戸を閉じそして切腹したと言われ、また他の者は彼は直ちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。

これがフロイスの「日本史」であるが「本城惣衛門覚書」と同じく、明智方の兵士が攻撃対象を信長ではなく家康と思ったと記載されている。

★★★
あれだけ猜疑心が強く幾多の危機を乗り越えてきた信長であるが、この時は全く無警戒であった。

単なる慢心であったのだろうか。そうであるなら俗に言う魔がさしたと言う以外に無い。やはり信長と雖も人の子であると言うことだろう。

それとも光秀以外に裏参謀がいて信長に疑念が起きないよう周到に準備されたモノだったのだろうか。

この暗殺事件には諸説紛々たるものがある。

つい最近の事件であるアメリカのケネディ大統領暗殺事件でも諸説が出るくらいであるから、もう400年も前の出来事である本能寺の変の詳細がわからないのも致し方がない。
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# by kenji1942 | 2011-02-11 21:54 | ブログ 信長
信長暗殺の首謀者は誰だ・・2

天下を震撼させた「本能寺の変」は、戦国最大の謎とされる。
「実行犯」は明智光秀であることは間違いないが、共謀者・黒幕の存在が各研究家・小説家から指摘されて久しく、本能寺の変後400余年を経た今も諸説紛々である。

光秀単独説

「本能寺に宿泊した信長が無防備に近い状態であることを知った光秀が天下獲りの野望の駆られて挙兵した。」

★フロイスの「日本史」は「光秀の過度の利欲と野心が募りに募り、ついにそれが天下の主となることを彼に望ませるまでになった。」・・と説明しているが根拠は無い。


信長に中国攻めの応援を命じられた光秀は、「丹波・南近江の代わりに出雲・石見を与えよう」との信長の指示を、山陰への左遷・未支配地への国替えの懼れにより進退窮まって本能寺の変を起こした」

★桑原三郎氏の本能寺の変の一起因(歴史地理)によると、この時期、織田信孝が光秀の丹波国人に対して四国攻めの動員をかけるなど、光秀の支配権力を否定する動きがあり、光秀は自己防衛の為に挙兵したとされる。

★中国攻めの司令官は羽柴秀吉であり、その下風に立つことになった光秀は絶望的になって本能寺の変を起こした。

★四国の長宗我部氏に対する織田家の申次役を務めていた光秀は、長宗我部氏攻めが決定されてその司令官が織田信孝・副司令官に丹羽長秀が任命されたこと、秀吉も四国に対する発言力を増してきたことに敗北感と屈辱感を募らせ、本能寺の変を起こした。
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# by kenji1942 | 2011-02-11 21:53 | ブログ 信長
      
     信長暗殺の首謀者は誰だ?・・1 

天下を震撼させた「本能寺の変」は、戦国最大の謎とされる。
「実行犯」は明智光秀であることは間違いないが、共謀者・黒幕の存在が各研究家・小説家から指摘されて久しく、本能寺の変後400余年を経た今も諸説紛々である。

光秀単独説

甲斐武田氏攻めを終えた後、信濃法華時で信長から「おのれに何の功があったか」と侮辱と折檻を受けた怒りが反逆を呼んだ。

★この話は「川角太閤記」に紹介されているが、資料的には二次・三次的で信憑性が薄い。


丹波八上城攻めにおいて、光秀は自分の老母を人質に入れて八上城主の波多野兄弟を誘い出したが、信長が彼らを殺してしまったので人質の老母を惨殺された。これにより怨恨がうまれた。

★この説は天正7年に八上城攻めが行われたときの出来事を起因としている。
その根拠としては「甫庵信長記」を更に軍記物として加工したものであり史実とは認められない。


家康饗応役を命じられ、精魂込めて役をまっとうしようとしたのにもかかわらず、些細なことで免職となって中国攻めの応援に廻されたため光秀は怒りと恨みで信長討滅を決意した。

★これも「甫庵太閤記」「川角太閤記」が紹介している説である。
しかし「信長公記」「兼見卿記」など信頼性の高い当時の史料によれば、光秀の接待は非常に高い評価を得ており免職の事実はない。

★フロイスの「日本史」によれば、この接待について信長と光秀の間で意見の衝突があり「信長は立ち上がり、怒りを込めて光秀を一度か二度足蹴にしたと言うことである。」と紹介しているが伝聞の域を出ない、本能寺の変のあとで流れた噂の一つとおもわれる。
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# by kenji1942 | 2011-02-10 22:11 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                  「日本史の謎」である。


本能寺に参戦した武士である、「本城惣右衛門の覚書」は
光秀方武士として本能寺の変に参戦した80歳くらいの丹波出身の老武士が若い頃の武勇談としてあらわしたもの。

 「あけちむほんいたし のぶながさまニはらめさせ申し候時、われらはのぶながさまにはらめさせ申すことは ゆめともしり申さず候そのおりふし、

 たいこさまびっちゅうニ てるもと殿おとりあい それへ すけニ あけちこし申し由申し候 山さきのかたへとこころざし候へば おもいのほか、京へと申し候、我等ハもその折ふし、家康さまとばかり存し候・・・・・・・・・・・」

 これによると、光秀から惣右衛門クラスの家臣には攻撃対象が最後まで公表されなかったのである。

 これは軍事機密の漏洩防止のためと家臣団の動揺を恐れての当然の判断と理解される。
従ってクーデター決行以前においては、ごく一部の上級家臣のみにしか正確な情報が知らされていなかったと考えられる。

 さらにこの戦闘が、「うちすて」・・すなわち敵の首を取る戦いではなく、信長のみを対象としたものであったことも判る。
 
 又、光秀の出陣が、本来は秀吉への「すけ」、つまり秀吉への援軍として派遣されようとしていたことも判明する。

 下級武士のなかでは、信長の命令で家康を亡き者にすると言う風に理解していた節もある。
この「本城惣右衛門覚書」に近似した部分がフロイスの「日本史」にもある。
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# by kenji1942 | 2011-02-10 19:39 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。


光秀と長宗我部元親


 信長の最晩年、反信長勢力に属する最強の戦国大名は、四国統一を目指して邁進していた長宗我部元親である。

 天正3年に土佐を統一した元親は、明智光秀を介して信長と結び、天正9年までには、十河存保等の三好氏一族の勢力圏を除く阿波・讃岐の大部分と、東伊予の宇摩・新居両軍と南伊予の喜多・宇和両軍の4郡を実質的に支配していた。

 元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。

 信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。

信長と元親の断交の原因は、天正9年6月に置ける信長の三好氏による阿波支配の支持にあった。

 天正10年2月9日付けで、信長は武田氏攻撃に関わる指令書を発給するが、それには三好康長に対して四国に出陣するようにという命令が記されている。

 武田氏滅亡後、信長は毛利氏・長宗我部氏に対する最終的な掃討を同時に行うことを決意する。

 これは両氏が長年に及ぶ対立を解消し同盟を結んだことによる。
一方を攻撃すると、他方が援軍(後詰め)を派遣する可能性があったからである。

 同年5月に信長は、神戸信孝を最高指揮官とする四国攻撃軍を組織する。
これによると5月7日の段階で信長自身が淡路経由で出陣し四国攻撃を敢行しようとしている。

 又、明智光秀を攻撃軍に加えなかったことも重要で、これは信長があらかじめ長宗我部氏から講和の窓口を奪ったことを証しているものである。

 このことが明智光秀クーデターの一因とも言われている。
又、6月2日の本能寺の変によって四国攻撃軍の本隊は渡海することなく自滅してしまった。
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# by kenji1942 | 2011-02-10 10:07 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。

 本能寺の変の直前の反信長勢力の実態としては毛利氏の劣勢があげられる。

天正10年5月、信長の中国攻撃軍の最高司令官であった秀吉は、備中高松城(岡山市)に進撃し、ついに同城を取り巻くように織田軍と毛利軍が対峙して、戦況は毛利氏に著しく不利に展開していた。

天正7年以降は、秀吉の調略が奏功し、毛利氏の劣勢が決定的となっていたからである。

 毛利氏を見限って信長に応じた氏族としては、備前の宇喜田氏・南条氏、毛利氏の水軍として瀬戸内海の制海権を掌握していた村上水軍(能島・来島・因島の村上一族によって編成)が分裂し、来島氏が信長に属した。

さらに武田氏を滅亡させた信長が大挙来襲すると言う情報が毛利氏家臣団の崩壊に拍車を駆けていく。

 天正9年になると毛利氏は、僧の安国寺恵瓊を介して講和の道を探り始めた。
最終的に秀吉から示された条件は、係争中の備中・美作・出雲等合計5カ国を手放すことであった。

従って本能寺の変は滅亡の淵にある毛利氏にとっては、まさに天佑とも言える。

 毛利氏が秀吉との深夜から始まる講和交渉を即座に締結したことや、上方めざして進軍する秀吉を追撃しなかったのは、なによりも崩壊寸前の家中を立て直すことこそ、第一の課題であると判断したものである。

 そしてそのことはのちの豊臣秀吉から大きな感謝を得ることとなった一つである
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# by kenji1942 | 2011-02-10 08:27 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 一説によれば、光秀のクーデターは事前に旧主義昭との連携を確保して行われたものである。・・と言う。

 光秀は与力であり縁戚関係にもある丹後の細川氏や大和の筒井氏などは勿論、淡路の水軍管氏や摂津の能勢氏など、相当に多くの畿内近国の領主層に対しても、クーデター以前あるいは直後に合力を依頼したと思われる。

 家運を盛り返そうとクーデターに参加した能勢氏ではあったが、光秀の敗戦によって能勢城も落城し、当主能勢頼次もいったんは大和に逼塞したが、天正14年には秀吉につかえ、関が原の戦いや大坂の陣では家康に属して奮戦し、旗本となって子孫相次ぎ明治維新を迎えた。

 又、美濃三人衆の一人で信長に追放された安藤守就も本能寺の変に乗じて旧城の美濃北方城(岐阜市北方町)に拠って稲葉良通と戦ったが敗死する。

 このように光秀が信長によって鎮圧・追放された領主層や牢人たちとも連絡を取っていた可能性が高い。

 尚・信長暗殺に義昭が大きく絡んでいるという説が近来増えてきたことはあるものの、真相は依然として謎の部分が多い。

★★★
小和田 哲男 氏 [おわだ てつお] 

 光秀単独説の一つは・・・(佐久間・林ら重臣の追放)という事態をまのあたりにし、いずれ中国征伐が終ったあたりで捨て殺しにされるかもしれないという危惧をいだきはじめていたのではないかと考えられる。

 (また)政権は源氏と平氏が交代でとるという考え方である。
特に有識故実に通じていた光秀は、自分が土岐源氏の流れをひく明智氏であることに自負をもっていたであろう。

 本能寺の変がおきる約一ヶ月ほど前に、信長を征夷大将軍に任命しようという朝廷側の働きかけがあった。
私は、このことが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかと考えている。
・・・つまり、将軍には源氏しか任命されてこなかったそれまでの原則をふみにじる平姓織田信長の将軍任官は、源氏である明智光秀にとっては許しがたいことではなかったかということである。

・・・その意識と、それまでの怨みやら、信長から捨て殺される不安とか、ライバル秀吉に追い越される焦りとかがまぜあった形となり、たまたまわずかの供で本能寺に泊っている信長を討とうという気になったのではなかろうか。

★★★
桑田 忠親 氏 [くわた ただちか]

 史学的には余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、・・・光秀迫害の話も、まんざら、否定できない・・・。そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。

 信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。

 明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。
その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような・・・足蹴にされても、知行をふやしてもらえば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。
 
 だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。

 こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなく、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。
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# by kenji1942 | 2011-02-10 07:23 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 天正10年のものと推定できる足利義昭の御内書においては、

「信長を討ち果たすうえは、入洛の儀急度馳走すべき由、輝元・隆景に対し申し遣わす条、この節いよいよ忠功を袖んずる事肝要、本意においては、恩賞すべし、よって肩衣、袴これを遣わす、なお昭光・家孝申すべく候なり。」  
6月13日  義昭花押  乃美兵部丞とのへ

 これは山崎の戦いの当日に、小早川隆景の重臣であり毛利水軍のリーダーでもあった乃美宗勝にあてて発給されたものである。
この文章で注目するべきは、冒頭の「信長を討ち果たすうえは・・・・・」と言う部分である。

 ここで義昭は自ら信長を討伐したことを表明し、毛利輝元や小早川隆景に入洛のための軍事行動を要請しているので、乃美軍も奔走するようにと依頼している。義昭も鞆から海路を利用して京都に帰洛を図ったモノと思われる。

 義昭が6月9日付けで毛利輝元と吉川元春及び小早川隆景に宛てて、一斉に出陣命令を発したことと併せて、足利義昭が本能寺の変のクーデターの中心人物であったことが確定されるモノである。

 しかし、義昭の希望を打ち砕くのは、皮肉にもこの乃美兵部丞に御内書を認めた当日に明智光秀が敗退したのであった。
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# by kenji1942 | 2011-02-10 07:19 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
       「日本史の謎」である。

       クーデターへの前触れ   足利義昭の追放

 元亀3年9月付けで信長は足利義昭に17ヵ条の意見状を突きつける。
第1条では義昭に朝廷への奉仕を説いており、信長自らを天皇を直接支える武臣と位置づける。

 その第10条では、元亀という元号が不吉であるから改元をするようにという勅命が幕府に下ったのにも拘わらずなされていない。
これは勅命を奉ずることが「天下の為」なのだから油断をしてはならない。

 第17条では、悪しき御所として殺害された将軍足利義教の例を持ち出して義昭の反省を求める。

 「天下静謐」を実現する為に朝廷をないがしろにしないようにすべきことを義昭に認めさす。
 このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。

 これは、義昭公方が宇治槙島城(京都市)に立て篭もって「御謀反」したので、信長がやむなく退治した結果、将軍義昭が「御牢人」となったとしている。

 このことは、あくまでも「天下」を掌握している信長が「公方」である義昭を支えていたものであって「天下」に従わない「公方」は結局は追放・牢人とならざるを得なかったのである。

 信長は義昭を追放した後すぐ様「公方」を否定したのではない。
信長は人質として義昭の子息を「大樹若君」として庇護推戴した。

 人物としての義昭は否定したが「公方」そのものを否定してのではない。
つまり、義昭を追放したことにより、室町幕府まで否定したと思われたくなかったと言うことである。

 一般的に義昭の追放で室町幕府は終焉したと言うことになっているものの義昭は、その後、備後の鞆で反信長活動を続け、光秀にも食指をのばし後の本能寺の変などにも多大な影響を持っていたのである。

 
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# by kenji1942 | 2011-02-09 09:23 | ブログ 信長
本能寺の変

 天正10年(1582年)6月1日信長の命により秀吉の援軍として中国に出陣した光秀は途中で明智左馬助他の一門や重臣斉藤利三・藤田伝五らに決心を打ち明けて全軍を東に向かわせた。

 翌・6月2日未明に京都に入った光秀軍13000人は本能寺を取り囲みトキの声をあげて鉄砲を打ち込み攻め込んだ。

本能寺の変である。

 戦いつつ死ぬ・・まさに信長にふさわしい死である。
「明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと、上位候」

 森蘭丸を初めとする少数の小姓衆以外軍勢を持たなかった信長は弓や槍で応戦したものの肘に傷を受けて御殿の奥に退き、炎の中で自刃して果てた。

★★★
 信長は毛髪と言わず骨と言わず何物も地上に残さず消え去る。・・・不思議だ。
本能寺が炎上したのは2時間程度・・・たったそれだけの時間で何物も残さず灰燼に帰すと言うのも面妖である。
このことから、本能寺の地下にある火薬庫に火を入れたのではないかと言う怪説もある。

妙覚寺に居た嫡男信忠も二条城に移って後討ち死にする。
信長49歳・・信忠26歳 
戦争に明け暮れていた人生が予期せぬ謀叛により終結した。

腹心こそ、一番用心しなければならない・・・・・君主論・・マキャべリの政治学
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# by kenji1942 | 2011-02-09 08:42 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 天正10年(1582)6月日未明、光秀は本能寺を襲撃して信長を自殺させ、さらに二条城を囲んで嫡子の織田信忠を討滅した。

 このことは光秀単独の行動だろうか、誰か別の人間と示し合わせての行動だろうか。永遠の謎に迫る為この行動の直近における光秀を取り巻く人間関係を見直してみる。

 巷間言われているような、信長の理不尽な光秀いじめが原因で、本能寺に生じた一瞬の隙間に対して光秀がとっさの判断でクーデターを起こした・・・この怨恨説は最近の研究では少数派になってきた感がある。

①光秀から上杉景勝への協力要請の書信
②義昭から小早川隆景にあてて、京都への軍事行動の催促。
③光秀の政権構想は、信長を倒してのち義昭の京都帰還と足利幕府再興である。
④光秀から紀州惣国一揆への出陣要請

 これらから読み取れるのは、光秀がクーデターを一瞬の判断で起こしたので無く用意周到に準備の上行動したのだろうと言う推測が立つモノである。
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# by kenji1942 | 2011-02-09 08:39 | ブログ 信長
本能寺前夜

 天正10年(1582年)3月11日・宿敵武田家を滅亡させて4月21日安土に凱旋した。
朝廷は勅旨を派遣して正親町(おうぎまち)天皇・誠仁(さねひと)親王からの祝勝の品を届け、信長を太政大臣か関白か将軍にしようと言う天皇方の意向を伝えたが、信長は返答せずに彼らを送り返した。

 信長は神戸信孝に命じて四国攻めを命じる。
一方、備中に侵攻した秀吉は城々を落とした天正10年5月毛利の将清水宗治を高松城に水攻めで囲む。

 城は水中に孤立し毛利は救援の大軍を派遣する。
総帥毛利輝元をはじめ、吉川元春・小早川隆景の両川以下全力を挙げての来援だった。
まさに織田・毛利の全面対決である。

 信長は自ら出馬の上毛利方と決戦し、あわよくば九州までも統一しようとして5月29日上洛し本能寺に宿泊した。
小姓以下40人前後の少人数であった。・・・将に油断。

 法華宗の本能寺は京都町衆の寺院で、堺から鉄砲を仕入れる取引の際には仲介者としての役割をつとめていた。

 翌・天正10年6月1日、信長は本能寺に博多の豪商島井宗室らを招いて茶会をもよおした。
毛利服属の先にある九州貿易・博多の掌握へと手を打っていたのである。

 信忠や公家衆・僧・商人らも訪れ、夜には囲碁の名人本因坊算砂が碁の相手をした。

そして、信長は最後の眠りに付いた。
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# by kenji1942 | 2011-02-08 09:09 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
          「日本史の謎」である。

 信長は将軍になりたかった。のである。??

 信長の政策決定に深く寄与した文官には、松井友閑・武井夕庵・楠正虎らの僧形の側近集団がブレーンとなって信長の諮問を受けていた。

 彼らは日常的に信長に侍し、学者・官僚・外交官・秘書官・書記官などの役割を幅広くこなしていた。

 信長・「天下布武」の「天下」観に密接に関わる問題として、源平交代思想がある。
源平交代思想は足利家の源氏将軍を否定して、それに代わって将軍位を狙う信長によって初めて意識されたとする。

 信長ははじめは忌部姓(いんべ)・藤原姓であったが義昭との対立の為、信長の家系を桓武平氏の末裔として世間にも宣伝されたように平氏を称する。

 信長は足利義昭を追放しながら、なお義昭の子息・足利義尋を庇護せざるを得なかったのであるが、畿内から室町幕府関係勢力を一掃した天正3年以降、源氏将軍にかわる平氏将軍として本格的な政権を樹立することを目指したのである。???

★★★
信長による、この平氏将軍の試みは征夷大将軍は源氏でなければならないと言う朝廷の巧妙な駆け引きで頓挫することとなる。
このあたりから、本能寺の変の裏側で明智光秀に影響を与えたのが朝廷関係者であるとの説が生まれる由縁である。

 それにしても信長が忌部姓(いんべ)・藤原姓として、後に平氏と称するというのは
織田政権を引き継いだ秀吉の「日輪の子」生誕説よりはマトモに思える。
叉、徳川家といえども似たようなものであるとも言われる。
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# by kenji1942 | 2011-02-08 09:03 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
         「日本史の謎」である。

 信長が室町幕府体制にこだわったのは、天正3年までである。
彼は、天正3年5月に長篠の戦において武田勝頼を徹底的に敗北させ、同年10月に大坂本願寺と講和している。

 そして同年11月には権大納言に任官し右大将を兼ね、将軍とほぼ同等の権限を獲得した。
このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。

 将軍義昭を放逐して後暫くは義昭の子息を立てて利用していたが、この後それも影を潜める。
このような事態を受けて義昭は毛利氏の庇護を求めて備後の鞆に退去する。

 戦争が長期化し大規模化するようになると、長期遠征可能な職業兵とその後方を支える専業農民化を進めなければならない。

 国主大名達は父祖伝来の地・本領を捨てて遠く離れた領地や城を預かる事となる。
その結果武士は本領を引き払い商人・職人と共に城下町に住み知行を貰い、百姓は農村に住み、国家に対して耕作と貢納の義務を負うこととなる。
 
 これは新たなる知行制度を創出し兵農分離を加速させる要因となった。

 後に織田政権を継承した秀吉は天正13年に大規模国替えを行う。織田旧臣でそれまで秀吉とは与力的な関係にあった大名さえ転封によって本領を失う。

 以後天下人の命令で諸大名が全国的な転封を繰り返す。いわゆる鉢植え大名である。

★★★
本能寺の変の少し前くらいには、明智光秀達老臣も粒粒辛苦して築いた領国を追われ転封の恐れを抱いていた。
これらもクーデターの要因となったモノと思われる。
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# by kenji1942 | 2011-02-08 08:59 | ブログ 信長
ご神体は信長

 フロイスは「日本史」で次のように記している。

 信長は安土城内に七堂伽藍を持つ本格的な寺院である総見寺を建立した。

信長はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに満足せず、(中略)自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。

 そしてその冒涜的な欲望を実現するべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺(総見寺)を建立することを命じ(下略)

 つまり、
総見寺は信長を本尊とする寺院であり、信長が「万人から礼拝される」為の寺院だったのである。

 天正10年に武田氏を滅ぼし、天下統一を目前にした信長は、中世的な権威構造をなくし自らを頂点とする新たな国家を創出しようとしたと見られる。

 信長はこれまでも宣教師には友好的な態度で接しており、とりわけヴァリニャーノには、京都での大規模な軍事パレード(馬ぞろえ)を見せたり、安土では安土城を自ら案内している。

 このことは、ローマ法王をはじめスペイン・ポルトガルの南蛮勢力に対して、信長こそが日本における最高権力者であることを見せ付ける為のものであった。

 ★★★★
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。天正遣欧少年使節を発案した。ヴァリニャーニともいう。

1539年、イタリアのキエーティで貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、知人だった教皇パウルス4世の招きでローマで働くことになった。

パウルス4世の後継者ピウス4世にも重用されたため、聖職者となることを決意し、1566年にイエズス会に入会した。

1570年司祭叙階。1571年、修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。

1573年、総長エヴァラルド・メルクリアンの名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師となった。

イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。

彼はリスボンからゴア、マラッカを経て1579年に日本にたどり着いた。 彼は日本を生涯に3度訪れている。

* 1579年の最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。

1582年にカブラルを日本から去らせた。また大友宗麟、高山右近、織田信長らと出会い、日本文化の理解に努め、『日本の風習と流儀に関する注意と助言』という小冊子を著している。

o ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。

それは1580年に有馬(現:長崎県)と安土(現:滋賀県)に設立された小神学校セミナリヨ、大分の府内に設けられた大神学校コレジオ、そして大分の臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院ノビシアドであった。

o また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。

彼はインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。

* 1590年の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。

* 1598年、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。

1603年に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。

1539年生 | 1606年没 | イエズス会士 | イタリア史の人物
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# by kenji1942 | 2011-02-07 14:54 | ブログ 信長
信長の神格化 
 
フロイスによれば、信長は
 毛利を平定して、日本66カ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。

日本は我が子たちに分かち与える。・・と豪語する。・・・フロイス「日本史」

 また、
「信長は自らが神として万人に礼拝される存在となることを望んでいた」と言う。

 そして死の直前、自分の誕生日(5月12日か)に安土城の総見寺に参拝するように命じた。

信長が自身を神体とする信仰の強制は、天皇以上の神格化と支配力を求めたものだ。
しかも、その神のまま日本を支配し中国への侵攻まで考えている。

 光秀は信長の独創性に感嘆しいつも膝を打って感心していたが、この「御神格」の件は
「狂気」としか思えなかった。

 「狂気だ・・このまま天下人にさせては、日本は崩壊する」・・・光秀の心が急速に冷えて行った。

命令に従わない和泉・槙尾寺の伽藍をことごとく焼き払い、更に伝統ある高野山の聖性を否定する為、高野聖数百人を取り押さえて惨殺する。

 荒木村重の残党が高野山にかくまわれているというのが高野聖虐殺の口実である。
信長が戦争の天才と言うより政治的独裁者へと変じてくる。

信長の現実改変は、日本の旧来の伝統と社会の秩序を破壊する。

 これは日本がかって知らぬ怪物的独裁者が出現することになる。・・光秀は戦慄する。
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# by kenji1942 | 2011-02-07 11:00 | ブログ 信長
信長から見た光秀の価値 

信長は光秀の持つ行政官僚としての手腕を高く評価していた。
とくに石山本願寺を降伏させるまで、信長は畿内の統治に煩わされいたので、光秀の禁裏・畿内の土豪に対する扱いの巧妙さでは多大の利益を得ていた。

 また、反復常ならざる松永久秀が謀反をしても詫びてくれば許し、天正5年(1577)まで殺さなかったのも、久秀の畿内土豪への影響力を考えての事であった。
信長はそれ程までに、畿内の統治には苦労を必要としたのである。

 光秀は京都付近の土豪である山城衆と、伊勢貞興を筆頭とする幕府奉公衆を率いて、京都の軍政を担当していたが、信長の家来となった幕府衆も多士済々であった。
 
 信長は京都における政治の上部組織は、村井貞勝を中心とする直臣団に掌握させ、下部組織の実務を行なう官僚には、足利義昭の幕府奉公衆から人材を抜擢した。

 一連の幕府衆が織田政権に吸収された後に、光秀が軍政に参与する必要の度合いが減って行き、段々に信長は光秀の官僚組織を使わなくても不自由を覚えなくなっていった。

とくに、石山本願寺の降伏を得て信長の天下政権の基盤が揺るぎのないものとなった今、光秀の存在価値は次第に希薄になっていたのである。

 そのような時期に信長の四国政策の変更により、長宗我部氏討伐の必要が生じたのである。
信長は三男の神戸三七信孝を四国征伐の大将、副将に丹羽長秀を任じた。

 光秀は永らく長宗我部との交渉にあたって来た実績から考えて、自分が四国攻めの大将か、副将に任命されると思い、叉世間でも当時の習慣からみてそうなるだろうと思われていた。

 光秀は四国征伐に参加できなかった為、信長の寵臣ではなくなった事実を織田家中はもとより世間まで知られる事になった。

 その頃、中国路から光秀謀叛の風聞がしきりに流されてくるのである。それを信長の元に伝えるのは秀吉であった。

 織田政権の中で、光秀が閑却された立場におかれているらしい、との情報を得た毛利陣営と備後の鞆にいる足利義昭が、織田政権の内部分裂をはかって虚報を流しているのである。

 信長はそのような事情をしっていたが、敵である毛利陣営から、付け込まれやすい弱点となった光秀が疎ましくてならなかった。

 天正10年(1582)に光秀は55歳になっていたが、今後の中国・四国経略は、秀吉の一人舞台となるに違いない。

当時としては老境に入り晩年を迎えようとする光秀は、9歳年下の秀吉に蹴落とされる運命に陥ったのである。
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# by kenji1942 | 2011-02-07 08:33 | ブログ 信長
光秀達・老臣の左遷


 天下統一が目前になるとともに、信長を補佐する重臣層に変化が表れた。
それは光秀らの方面軍を指揮する老齢の重臣と、信長の子息をはじめとする織田一門や若き近習達との世代交代である。

 若手の優秀な側近を取り立てて近畿地方に配置して、政権の中枢に据える。
一方光秀や勝家等の重臣層には国替えを強制し拡大した織田領の最前線を守備させる。

 これこそが天下統一後を見据えた信長の人事構想であった。
これが、光秀ら政権中枢にあった老臣が実質的に退陣すること、すなわち世代交代に直結するのは明白である。

 例えば武田氏を滅亡させた後、信長の老臣で北伊勢を領有していた滝川一益は、関東の厩橋への国替えを命じられしぶしぶ従った。

 もし上杉氏を滅亡させればその地へ柴田勝家が国替えになったであろう。
すなわち功績のあった重臣であっても、信長の命令ひとつで自由に国替えさせようとしたのである。

 この流れから見ると、次は光秀の支配地である近江の国滋賀郡を誰か有能な近習に与える予定ではないかと思うのが当然である。

 天下人の命令を受けて本領から遠く離れた領国を預かり、転封(国替え)を繰り返すいわゆる「鉢植え大名」の誕生は信長の新国家を樹立する為には必要不可欠であった。

     
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# by kenji1942 | 2011-02-06 20:38 | ブログ 信長
光秀の憂鬱

 天下政権を効率よく運営していく為には、常に無能者を選別し、見捨てていかなければならない。
信長は光秀の行政官僚としての手腕を高く評価していた。

 元来、光秀は城攻めは巧みであったが、野戦は苦手であった。
城攻めは、物資の補給をやって居れば良いので行政官僚の光秀には向いている。
だが、野戦は戦況がいつどう変わるか予断を許さない為、大将が殺される可能性が常にあった。

 光秀は秀吉に較べ臆病で野戦を避けたがる傾きがあり、このため次第に秀吉に取って代わられていくかに見えていた。
 
 光秀の禁裏・畿内地侍衆に対する外交折衝の巧妙さによって,信長は多大の利益を得てきた。
しかし、光秀は天正10年には55歳になっていて当時としては老境に入り晩年を迎えようとしていた。

 信長は人材の登用には門閥をあげつらうことなく、才幹次第では小身の侍を一挙に大名に取り立てるが,必要でなくなった者はたちまち遠ざけた。

 信長は光秀の賢ぶって有職故実を重んじようとする態度がきらいであり他の家臣が信長を尊敬して言われるままに働くのと違い、光秀が批判のまなざしを向けてくるのを知っていた。

 光秀は四国征伐に際して,大将でなくても副将に命じられると自他共に予想していた。
ところが、長宗我部氏の征伐が発表されると、大将は神戸信孝で副将は丹羽長秀が任じられ光秀は外されたのである。
このことは光秀に対する信長の寵愛が去ったことを証明していると世間も見るだろう。

 羽柴秀吉が大抜擢されて行くかたわら、佐久間信盛・林通勝等の功労あるものが追放されている。
そのような情け容赦のない信長の人使いを知っているので光秀は身に迫る危機感を強めて行ったのである。
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# by kenji1942 | 2011-02-06 20:25 | ブログ 信長
光秀と長宗我部(ちょうそかべ)元親

 光秀が信長に重臣として優遇されている時、ライバル・秀吉は苦心惨憺しながらも播州を制圧し、備中を押さえ、その前に因幡・但馬・美作を制圧しつつあった。

 そうなってくると今度は秀吉の方が光秀の地位を追い抜いてしまう。
光秀の40万石に対して、秀吉の支配した中国地方の国々は50万石を超えていた。

 また、秀吉には子供がなく、信長の子の秀勝を養子に貰っていた。
秀吉は長浜在城のとき、南殿という愛妾との間に男女二人の子供をもうけたが、いずれも早逝した。
妻のおねに毒殺されたと言う説もある。

 信長は秀吉に所領をやれば、いずれそれが秀勝のものになると考え、惜しみなく領地を秀吉に与えるという構図になっていたこともあり、 光秀は秀吉に先んじられ、その差をちじめられないことを自覚せざるを得なかった。

 その頃、光秀は信長政権と土佐の戦国大名・四国の覇者・長宗我部氏を結びつける外交官として四国政策に深く関わる事となった。

 天正3年(1575年)7月・長宗我部元親は土佐の国を統一した。
元親は引き続き阿波を本拠とする三好勢力の攻略に着手するが、遠交近攻策により、当時天下の実権を握りつつあった織田信長に接近する。

 元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。
信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や、瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。

 天正8年(1580)12月に元親は、大坂から本願寺を退去させたことを祝して、信長に名産の伊予鶏を献上しており、この時点まで両者は友好関係にあり、天正3年以来、元親は四国の最大勢力である三好氏の掃討に取りくんでいた。

 天正3年4月三好康長は信長の軍門の下り河内の支配を任されていたが、長宗我部氏から阿波の奪還を図りつつあり、その取次ぎは羽柴秀吉が行っていた。

 これは当時毛利氏と対峙していた羽柴秀吉が毛利氏の村上水軍に対抗する為、三好氏の水軍力が必要であったので、信長に巧みに働きかけた結果、天正9年6月信長は元親に対して敵の三好氏を援助して阿波の支配をせよと言う、朱印状を発することとなった。

 羽柴秀吉を取次ぎ者とした三好氏の巻き返しにあい、長宗我部氏は苦境に立たされる。
当然怒った長宗我部元親は直ちに織田信長と断交する。

 このことは光秀が担当する四国政策の大転換であり、光秀を苦しい立場に追い込む事となった。

 つまり、これは信長重臣間の派閥抗争の一環と考えられ、羽柴秀吉の凄いしたたかな異才が光るところであり、織田家随一の重臣とみなされていた光秀の強力なライバルとして秀吉が急速に台頭してきた場面である。

 天正10年2月信長は武田氏を滅亡させたのちに、長宗我部氏の掃討戦を行う決意をした。
四国担当外交官として深く関わった長宗我部氏が敗北すると言うことは光秀の信長政権内部における発言権の決定的な低下であり、次には左遷人事が予想された。

この時期になると光秀には信長の手法が見えていた。
それは信長に忠誠を尽くしても一旦政策が変更されると長宗我部氏のように、早くから信長に従い、且つ落ち度の無い大名でさえあっさりと捨てられるのである。

信長の四国攻撃を前にして光秀は人生最大の危機に直面していたのである。
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# by kenji1942 | 2011-02-06 20:17 | ブログ 信長
光秀と義昭

 足利義昭が裏面で反信長作戦を実施する段階で、信長の戦国大名としての力量を認める光秀とは段々利害が相容れなくなっていった。

 そして義昭の宇治槙島城の挙兵をもって、光秀は義昭の主従関係を解消し信長一本となる。
戦国時代の主従関係は一種の契約でドライでもあったから、非力なボスに見切りをつけた部下が他の実力者に乗り換えるのは何の不思議も無いことであった。

 光秀は義昭より信長の方が武家を束ねるリーダーとしての器量が勝っていると判断したのである。
 ましてや信長は義昭追放後もその子息を将軍候補として奉じていたから幕府衆の多くも安心して京都にとどまっていた。

  特に坂本城は秀吉の居城である長浜城とともに、安土城の両翼ともいわれるような重大な位置にあって京都ののどくびを押さえている。
これを光秀が任されて、京都の軍政を指揮していた。
いわば、光秀は近衛師団長であり、近畿軍管区司令官であったのである。

 光秀は、かっての反信長勢力、、、今は制圧されて従順になっているが、情勢しだいでは信長に充分そむきうる動機のある公家社会、寺社勢力、信長に全く任用されない地侍勢力などとの折衝役を任されていた。

 信長は光秀の政治財政の才にくわうるに、畿内諸豪族との円満な対人関係を認めていたのである。

 これによって光秀は近江国滋賀郡と丹波・丹後の経営を担当するとともに、大和から摂津更に四国地域にも影響力を持つ織田家随一の重臣としての地位を獲得する。

 一方、信長の諸将のなかで、北国管領になった柴田勝家は最右翼にいたが、北国探題として越前北の庄に赴いた。
また滝川一益は関東に赴任したので、織田政権の中枢部で、トップにいたのが光秀で、それに次ぐのが西国征伐に赴いている秀吉である。
 
 光秀は、信長政権と土佐の戦国大名・長宗我氏を結びつける外交官として四国政策に深くかかわることにもなった。

 明智光秀が信長に仕えて僅か13年の快挙であった。
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# by kenji1942 | 2011-02-06 07:00 | ブログ 信長
光秀・重臣への登用

 光秀は実際に野戦で戦うというよりは、行政官としての能力が優れていた。
光秀は京都の公家達と密接に接触していたが、もともと学問があったので朝廷、公家と交渉する手続きについては、細川藤孝らを通じ心得ていた。

 だから信長は、織田政権の京都の軍政を羽柴秀吉とか京都所司代であった村井貞勝に任せているが、外交の面で活躍したのは光秀である。

 さらに光秀は徴税官僚としての能力を買われていた。
信長の命令は峻厳を極めたが、それを婉曲に相手に伝え、しかも信長よりなお辛らつな方法で税金を取り立てた。

 一方、野戦で信長の手足となってコマネズミのように働いていたのが、羽柴秀吉であるが、この時期光秀は秀吉よりいつも二年の差をつけて出世をしていた。

 光秀は元亀2年(1571年)9月の比叡山焼き討ちののち信長から恩賞として近江国滋賀郡に所領を与えられ名城・坂本城を築く。

 光秀は信長の家来になって僅か12、3年のうちに、四十数万石の身代にのし上がる。
山陰地方を制圧した後、坂本城と亀山城の二つを任されたが、どちらも京都防衛の拠点として重要な場所である。

  これによって光秀は、当時の織田家随一の重臣である佐久間信盛につぐクラスの仲間入りをすると言う抜擢を受ける。

 京都の東を守る要衝の地に位置する城を預けられたと言うことからも当時の光秀が如何に信長から信頼されていたのかが判る。

 後に光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を築いて丹波支配の拠点とするが、光秀終生の本拠地は坂本城である。

 この時期、光秀は琵琶湖の船運を握っていた堅田衆を組織しているが、重臣・猪飼甚介は堅田水軍の棟梁であった。

 堅田衆は真言門徒でもあったから、光秀は堅田衆と一向宗真言寺院との結びつきを切り離すことに腐心した。

 
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# by kenji1942 | 2011-02-06 06:59 | ブログ 信長
明智光秀
 永禄11年(1568年)7月、信長は美濃の立政寺(岐阜市)に足利義昭の一行を迎えた。
この対面を実現させたのは、義昭の側近である細川藤孝と明智光秀であった。
      
 岐阜に義昭を迎えた信長(35歳)はただちに上洛戦の準備に入る。
ここから光秀の栄光が始まる。

 明智光秀は出自が明確でない人物である。
岐阜の明智氏の一族であったと言われるが、光秀の父親は一応明智氏の家来であったかも知らないが、一族とは考えられない面もある。
他にも小浜の鍔師の息子であったと言う説もある。

 ただ光秀は衆にすぐれた才人で、有職故実に詳しい学研肌の人であり、鉄砲の技術を取得した有能な射手でもあった。
これらの事実から推量して、武人として卓抜な能力の持ち主であったと考えられ容姿は水際立っていて、折り目正しく上品な人柄だったと言われる。

 光秀は当初朝倉義景の家来になって一揆征伐で大いに働いて認められ禄500貫(4500石)を貰っていたが、義景のところにあらわれた13代将軍足利義輝の弟の足利義昭の家来になり、その後信長の家来となったもの。
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# by kenji1942 | 2011-02-05 20:29 | ブログ 信長

 勅命和議から三ヶ月後の元亀4年=天正元年(1573)7月1日、足利義昭が宇治の槇島城で反信長の兵を挙げる。
信長は義昭の逆心を見通していたので、大型船建造などの戦備を着々と実施していて、義昭勢を鎧袖一触7月18日には槇島城を攻め落とし、近衛前久の潜む河内の若江城へ追放する。

 勅命和議に背いた「逆賊」義昭を討った事で、信長は朝廷公認の天下人となる権利を得たのである。

 足利義昭の追放は江北の動揺を誘い次々と信長側に寝返りが続出し、浅井長政の救援に駆けつけた朝倉義景は力及ばず越前一乗谷に逃げ帰る。

 一族の朝倉景鏡に裏切られた義景は天正元年8月22日自刃する。
ここに5代100年に渡った戦国大名の朝倉氏は滅亡し城下町一乗谷も焼け野原となった。
先に寝返っていた朝倉氏の旧臣・前波吉継が「守護代」として越前一国の支配を信長から任された。
 信長は朝倉氏を滅ぼすと、ただちに近江に軍を返し浅井長政一族を討滅する。
このとき浅井長政の妻となっていた信長の妹お市の方は長政の説得をいれ三人の娘とともに城を出て信長のもとに引き取られる。

  一方、伊勢長島の一向一揆の抵抗は烈しかった。
この年の9月からの一ヶ月に及ぶ信長軍の猛攻にも耐え抜き、10月には撤退する織田軍を追撃して、信長を敗死寸前まで追い詰める働きを示した。

 11月には、信長は佐久間信盛に命じて河内の若江城の三好義継を攻めさせた。
そこには近衛前久が潜伏していて、信長に追放された足利義昭も逃げ込んでいたのである。

 三好家の家老三人が義継を裏切って佐久間勢を城内に引き入れた為に、堅牢を誇った若江城もあっけなく落城した。
もはやこれまでと覚悟した義継は、妻子を殺した後に玉砕する。

 三好義継の妻は足利義晴の娘なのだから、義昭の妹、近衛前久の従妹にあたる。
二人が若江城に身を寄せたのもそうした縁故を頼ってのことだが、落城の時にはすでに脱出していた。

 足利義昭は備後の鞆へ、近衛前久は妹の婿である黒井城主赤井直正を頼って丹波へと落ちのびたのである。

 二人が指令本部としていた若江城を落したことによって、信長は包囲網の相互の連絡を断つことに成功し、あとは包囲網に加わった敵を各個撃破していくばかりとなったのである

★ちなみにお市と娘達は信長の弟信包に預けられて不自由なく暮らした。

 そして本能寺に信長が倒れて後、お市は柴田勝家に嫁したものの勝家と自害をともにする。
長女茶々は秀吉に嫁して秀頼を産み淀殿とよばれる。
 
 次女初は京極高次に嫁し、末娘の小督(こごう)は従兄弟の佐治与九郎に嫁すもさまざまなめぐり合わせにより家康の嫡男徳川秀忠の妻となり家光を産む。
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# by kenji1942 | 2011-02-05 06:39 | ブログ 信長
義昭の追放

 義昭は信玄死去の風聞を耳にしたが信長方の意図的なリークと思っていた。
勅命和議から三ヶ月後の元亀4年(1573)7月1日、諸将の決起をうながす為足利義昭が宇治の槇島城で反信長の兵を挙げた。

 義昭は愚かにもこの時点においてもまだ信玄の死を知らなかったのである。
近代戦では、常に情報を制するものが生き残る。
ましてや生きるか死ぬかの戦国時代の勝者には情報網の整備が必須であるが、しぶとさでは信長も一目置く松永弾正久秀などの足利義昭方にはその点で大いに抜かりがあったものと思われる。

 一旦和睦した義昭であるが、信玄は甲府に戻ったものの、又上洛するものと信じあらためて朝倉・浅井・武田に信長追討の命令をくだし再度の挟撃作戦を図ったのである。
自分が起てば信長包囲網が再び動き出すという期待があったからである。

  義昭の近臣・三淵藤英に2000余を与えて二条城を守らせ、自分は家老の槙島昭光の居城である槙島城に3700余を率いて立てこもった。

 信長は7月7日にもう琵琶湖を漕ぎ渡り坂本に上陸を果たす。
元亀4年1月に義昭が第一回・反信長の兵を挙げて信長を危機一髪のところまで追い込んだが、勅命和議によりからくも4月11日に岐阜に帰った信長は5月22日に佐和山城下で大型船の着工を命じる。

 信長は必ず又義昭が敵対すると見ていたのである。
5月22日に着工した船が7月3日に完成し、7月6日に信長がこの舟に乗って出陣したというから並みの速さではない。

 吉田兼見(兼和)が残した「兼見卿記」によれば、長さ二十七間・54メートルもある超大型船であった。
一説によれば、このような超大型船は和船の建造技術では造れず、宣教師などの協力でガレオン船の技術を用いたと思われる。
ガレオン船の技術は、今日の超高速コンピューターの技術に匹敵するような重要機密であるから、宣教師を通してのイスパニアに対する信長の思い切った見返り案があったと思われる。

 それは天下統一後にキリスト教の布教を認めるとか、貿易関係による彼らの利益に貢献するということであろう。l

 信長は予想を上回るほどの迅速さで出兵し、7月12日には二条御所を守る義昭の近臣達を降伏させ、7月18日には義昭の槙島城を攻め落とした。

 義昭は嫡男・足利義尋(よしひろ)を人質に差し出して降伏する。
信長は羽柴秀吉に命じて、反信長勢力の黒幕・近衛前久の潜伏している河内若江城(三好義継在城)に送り届けさした。

 人々は義昭を「貧乏公方」と嘲笑した・・(信長公記)
これ以後暫らくの間、信長は足利義尋を将軍に擁立すると称して幕府勢力の離反を食い止めるのであるが、室町幕府の命脈は義昭の追放によって事実上断たれたのである。

 一方、意気あがる信長は7月21日に京都に凱旋し、村井貞勝を京都所司代に任じ、7月28日には朝廷に奏請して元亀から天正への改元を実現した。

 勅命和議に背いた「逆賊」義昭を討ったことで,信長は朝廷公認の天下人となる権利を得たのである。
 
 そうなれば義昭と同盟を結んでいた浅井・朝倉もまた逆賊ということとなり、その討伐に向かうこととなるのである。
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# by kenji1942 | 2011-02-05 06:33 | ブログ 信長
 義昭の挙兵と信玄の死

 武田信玄が「三方が原の合戦」で大勝する。
元亀3年(1572年)12月22日・家康は無謀にも部下8000人と信長の援兵佐久間・滝川他3000人の合計11000人で、武田信玄2万7000人の軍勢の背後から攻撃をかけた。

 武田軍はただちに応戦して徳川軍を打ち破った。
徳川軍は総崩れとなり信長援軍の将・平手汎秀を初め多数の戦死者をだし、家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰った。 

 家康は大敗した。・・・家康の生涯で最大の敗戦であった。

 足利義昭は反信長同盟の結成に重要な役割を果たし挙兵の機をうかがっていた。
最も戦力的に頼りにしていたのは信玄の西上作戦であったから、三方が原の信玄大勝利を喜んだ義昭は元亀4年(1573)1月、二条御所で挙兵に踏み切った。

 反信長連合軍の包囲網が完成し、信長は四面楚歌の状態に陥る。
この危機を乗り切る為、信長は日乗上人や村井貞勝を使者として、義昭の要求どおりの条件で和議を結ぶと申し入れたが、義昭は拒絶する。
 
 義昭の拒絶にあった信長は3月29日に足利勢を蹴散らして上洛し二条御所を包囲する。
だがここで義昭を殺したら武田や朝倉に停戦に応じさせるきっかけを失うことと成る。
そこで再び和議を申し込んだが、義昭は必死に拒み続ける。

 長い間信長の傀儡であった屈辱に甘んじていただけに、自分が死ぬことで信長を道連れに出来るなら本望だと腹をくくっていたのだろう。

 ここで信長は内裏や公家達の屋敷がある京都の上京を焼き払うと言う前代未聞の恐るべき手段にでる。
義昭を和議に合意させる為に嫌がる朝廷を恫喝し、正親町天皇をして4月5日に関白・二条晴良を勅使として和議の勅命をつたえさせる。

 前々年に勅命和議が成立したとき、信長は比叡山の山門領を比叡山に帰すと誓約しておきながら、約束を反古にしたうえに比叡山を焼き討ちにしたのである。
こんな理不尽な相手に再び勅使を出したなら朝廷の沽券にかかわると日頃軟弱な公家たちもまなじりを決して反対した。

 怒った信長に周囲を取り囲まれて火を放たれた朝廷は、一瞬比叡山の悪夢が脳裡をよぎったのであろう。
朝廷は土壇場までは例え足利幕府が滅んでも自分たちが皆殺しにされるよりもましだと考えていたのであるが、この事態を迎えて翌日慌てて二条御所に和議の勅使を使わしたものでる。

 もし、ここで義昭が和議に応じなかったら、勅命に応じない逆賊と言う事になり、足利幕府を倒す大義名分が立つ。
信長はそれを狙い、上京の焼き払いという恐ろしい手段で朝廷に強要し和議の勅命を出させたものである。

 この勅命和議により四面楚歌の危ない状態からの虎口を脱した信長は、近江の敵を掃討しながら4月11日に岐阜へと引き上げた。

 病を得て帰国していた信玄が信州駒場で没したのは、その翌日であった。
上洛を目指した信玄であるが、翌、天正元年(1573年)・長篠(愛知県)まで進んだところで
病を得て西進をあきらめ、甲斐に帰国途中の天正元年4月12日・信濃伊那谷の駒場で53歳の生涯を閉じ、死に臨んだ信玄は、三年の間喪を秘すように遺言した。

 事実、その葬儀は三年後の天正4年4月16日に菩提寺の恵林寺で執り行われた。
ここに、 信長は最大の恐怖と危機を脱したのである。

 ★★当時の戦力概算。
家康  26万石
信長 166万石 
信玄 200万石

★信玄の病は、肺癌・胃癌と諸説ある。

 又、信玄の死を確信した信長は同盟を結んでいる上杉謙信に宛てて武田軍を挟撃しようという申し入れをしているが謙信の義侠心が許さなかった。

「英雄・人傑とはこの信玄をこそいわん。関東の弓矢、柱なくなり惜しきことなり」・・・北越軍記
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# by kenji1942 | 2011-02-05 06:28 | ブログ 信長
本願寺との勅命和議

 雑賀衆の信長への屈服、三木城開城、摂津有岡城荒木村重の敗退、謙信の死・・段々と反信長連合が倒れ、毛利の救援もままならず本願寺は孤立を深めていった。

 信長は天正7年の暮れから天皇を仲介として講和の場に本願寺を引き出そうと画策していたが天正8年顕如は戦局の悪化が著しい為講和に傾いていった。

 天正8年(1580)になって、天正6年11月以来中断していた石山本願寺との和平交渉が、近衛前久の仲介で再開された。

 本願寺の孤立により、戦況は圧倒的に信長に有利だったにも拘らず、この和議を受け入れたのは近衛前久による説得効果であることと、信長が本願寺の巨大な施設を無傷で手に入れたかった為である。
叉、その跡地に安土城よりも巨大な城郭都市を造りたかったとも言われている。

 3月1日、正親町天皇から和議の勅命が下り、朝廷から庭田大納言重保と武家伝奏の勧修寺晴豊が勅使として大坂に下向する。
この時、近衛前久も仲介役として立会い、信長方からは松井友閑と本願寺攻めの総責任者である佐久間信盛が同行した。
 
信長は七か条の硬軟両策の講和条件を提案する。
1、惣赦免の事
1、賀州ニ郡、大坂退去後、如在なきにおいては返し付くべき事
他5か条

 第一条では本願寺の要求通り惣赦免(全面的講和を意味する)とすることを認め、第二条では織田軍が占領している加賀の国の江沼、能見の二郡を返還してもよいとまで申し入れている。
このあたりが、信長のアメとムチの見事なところである。
 
 和議の勅命が下った為に、本願寺では評定を開いて降伏を決定する。
その理由の一つが院宣には背けないことと、もう一つはこのまま信長と戦いを続けては根絶やしにされる惧れがあると判断した為である。

 顕如は正親町天皇の勅命がくだったことと、信長が講和条件並びにこれを遵守する事を誓う血判誓紙を差し出したのを見て、紀州雑賀に退去するのであったが、息子の教如は徹底抗戦を主張して籠城を続ける。

 困り果てた近衛前久は膝詰めで教如を説得し安全を保証する誓紙を差し出してやっと退去させる。ちなみに、教如は本願寺が門跡寺院になる為の政策として近衛前久の猶子(ゆうし)となっている。

 教如あての誓紙には、
1、本願寺住持としての教如の身分
1、諸末寺の還住と寺領
1、籠城派の生命と往還の自由
この点が覚書にそえて保証するとあった。

 教如はこの条件をのみ、8月2日に本願寺を退去したが、信長が喉から手が出るほど欲しがった寺の施設は無傷では手に入らなかった。
 
 寺内町から出火した火事が寺の伽藍に飛び火し、蓮如以来八十余年の繁栄を誇った浄土真宗の都は三日三晩に亘って燃え続けたのである。

 石山本願寺と寺内町は灰燼に帰し、ここに足掛け11年に及ぶ石山本願寺の抵抗戦は終結し講和の名による石山落城である。

★★★★
 本願寺が持つ広大な所領と門徒を守り抜くには、朝廷から与えられていた守護不入権を獲得する以外にない。その為には門跡寺院にならなければならなかった。

 門跡寺院とは親王か五摂家の出身者が住職をつとめる寺のことで、朝廷からさまざまな特権を与えられている。 そこで顕如は九条種通の猶子(ゆうし)となり、本願寺を門跡寺院としたのである。
顕如の息子の教如は、近衛前久の猶子(ゆうしとなっている。

 親鸞聖人の教えを説いて下層の民の支持を集めた本願寺は、巨大化した組織を維持する為に五摂家と結びついたのである。
つまり、本願寺もこの国の支配体制と無縁では生き残れなかったので
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# by kenji1942 | 2011-02-04 08:33 | ブログ 信長
武田勝頼・天目山に滅亡す

 信長は中国・四国地方の平定に専念する為には背後の不安を除いておく必要があると考え、信玄の病没後に弱体化した甲斐(山梨県)の武田家殲滅を決意する。

  天正10年(1582)2月、木曾義昌が寝返ったとの情報を得て、後継者に指名した息子の織田信孝に、信玄の嫡男・武田勝頼討伐を命じ、岐阜から甲斐に向かわす事となった。

 2月3日に信長が諸口から侵攻を、駿河口から徳川家康、飛騨口は金森長近、伊那口は織田信忠と定め出陣した。
このような迅速な行動こそ他の戦国大名には見られない信長軍の特徴だった。

 一方の武田勝頼は信長の侵攻に備えて築いた新府城に籠城したが、頼みの綱の高遠城が落城したりした為、部下将領は勝頼を見捨てて殆ど逃げてしまった。

 3月3日勝頼は小山田信茂を頼って南に逃げたが、信茂にも裏切られ最後に残っていた女・子供と40人前後の家臣とともに討ち死にした。

ここにあっけなく名門武田家が天目山の戦いで滅亡した。

 信長は勝頼の首を検分する。
更に、新しい領地の配分などの事務処理を行い、いよいよ帰還となった時、「甲州から富士山を見ながら、駿河と遠江を通って安土に帰る」とわざわざ遠回りして帰ることとした。

 信長の生涯において、唯一の長期休暇となったこの出来事は、武田家の滅亡がいかに信長を安堵させたかをうかがわせるものである。

 供回りだけを連れた信長は、4月2日に信濃を出発し、翌日、甲斐の甲府に入り、敵将の中で最も怖れていた信玄のかっての居城に8日間滞在する。

 その後、旧信玄館を出た信長は富士山を見ながら駿河へ。
徳川家康の手厚い接待を受けながら、白糸の滝を見物するとともに、キジ500羽を献上する為に来訪した相模の北条氏政などと時を過ごした。

 この4月2日からの約3週間は、信長にとって最も心安らぐ旅となったことであろうと思われる。
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# by kenji1942 | 2011-02-04 08:25 | ブログ 信長