信長44・・・明智光秀・・3
2011年 02月 06日
足利義昭が裏面で反信長作戦を実施する段階で、信長の戦国大名としての力量を認める光秀とは段々利害が相容れなくなっていった。
そして義昭の宇治槙島城の挙兵をもって、光秀は義昭の主従関係を解消し信長一本となる。
戦国時代の主従関係は一種の契約でドライでもあったから、非力なボスに見切りをつけた部下が他の実力者に乗り換えるのは何の不思議も無いことであった。
光秀は義昭より信長の方が武家を束ねるリーダーとしての器量が勝っていると判断したのである。
ましてや信長は義昭追放後もその子息を将軍候補として奉じていたから幕府衆の多くも安心して京都にとどまっていた。
特に坂本城は秀吉の居城である長浜城とともに、安土城の両翼ともいわれるような重大な位置にあって京都ののどくびを押さえている。
これを光秀が任されて、京都の軍政を指揮していた。
いわば、光秀は近衛師団長であり、近畿軍管区司令官であったのである。
光秀は、かっての反信長勢力、、、今は制圧されて従順になっているが、情勢しだいでは信長に充分そむきうる動機のある公家社会、寺社勢力、信長に全く任用されない地侍勢力などとの折衝役を任されていた。
信長は光秀の政治財政の才にくわうるに、畿内諸豪族との円満な対人関係を認めていたのである。
これによって光秀は近江国滋賀郡と丹波・丹後の経営を担当するとともに、大和から摂津更に四国地域にも影響力を持つ織田家随一の重臣としての地位を獲得する。
一方、信長の諸将のなかで、北国管領になった柴田勝家は最右翼にいたが、北国探題として越前北の庄に赴いた。
また滝川一益は関東に赴任したので、織田政権の中枢部で、トップにいたのが光秀で、それに次ぐのが西国征伐に赴いている秀吉である。
光秀は、信長政権と土佐の戦国大名・長宗我氏を結びつける外交官として四国政策に深くかかわることにもなった。
明智光秀が信長に仕えて僅か13年の快挙であった。