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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長48・・・・明智光秀・・7

信長から見た光秀の価値 

信長は光秀の持つ行政官僚としての手腕を高く評価していた。
とくに石山本願寺を降伏させるまで、信長は畿内の統治に煩わされいたので、光秀の禁裏・畿内の土豪に対する扱いの巧妙さでは多大の利益を得ていた。

 また、反復常ならざる松永久秀が謀反をしても詫びてくれば許し、天正5年(1577)まで殺さなかったのも、久秀の畿内土豪への影響力を考えての事であった。
信長はそれ程までに、畿内の統治には苦労を必要としたのである。

 光秀は京都付近の土豪である山城衆と、伊勢貞興を筆頭とする幕府奉公衆を率いて、京都の軍政を担当していたが、信長の家来となった幕府衆も多士済々であった。
 
 信長は京都における政治の上部組織は、村井貞勝を中心とする直臣団に掌握させ、下部組織の実務を行なう官僚には、足利義昭の幕府奉公衆から人材を抜擢した。

 一連の幕府衆が織田政権に吸収された後に、光秀が軍政に参与する必要の度合いが減って行き、段々に信長は光秀の官僚組織を使わなくても不自由を覚えなくなっていった。

とくに、石山本願寺の降伏を得て信長の天下政権の基盤が揺るぎのないものとなった今、光秀の存在価値は次第に希薄になっていたのである。

 そのような時期に信長の四国政策の変更により、長宗我部氏討伐の必要が生じたのである。
信長は三男の神戸三七信孝を四国征伐の大将、副将に丹羽長秀を任じた。

 光秀は永らく長宗我部との交渉にあたって来た実績から考えて、自分が四国攻めの大将か、副将に任命されると思い、叉世間でも当時の習慣からみてそうなるだろうと思われていた。

 光秀は四国征伐に参加できなかった為、信長の寵臣ではなくなった事実を織田家中はもとより世間まで知られる事になった。

 その頃、中国路から光秀謀叛の風聞がしきりに流されてくるのである。それを信長の元に伝えるのは秀吉であった。

 織田政権の中で、光秀が閑却された立場におかれているらしい、との情報を得た毛利陣営と備後の鞆にいる足利義昭が、織田政権の内部分裂をはかって虚報を流しているのである。

 信長はそのような事情をしっていたが、敵である毛利陣営から、付け込まれやすい弱点となった光秀が疎ましくてならなかった。

 天正10年(1582)に光秀は55歳になっていたが、今後の中国・四国経略は、秀吉の一人舞台となるに違いない。

当時としては老境に入り晩年を迎えようとする光秀は、9歳年下の秀吉に蹴落とされる運命に陥ったのである。
by kenji1942 | 2011-02-07 08:33 | ブログ 信長