信長52・・・・本能寺・・2
2011年 02月 08日
「日本史の謎」である。
信長は将軍になりたかった。のである。??
信長の政策決定に深く寄与した文官には、松井友閑・武井夕庵・楠正虎らの僧形の側近集団がブレーンとなって信長の諮問を受けていた。
彼らは日常的に信長に侍し、学者・官僚・外交官・秘書官・書記官などの役割を幅広くこなしていた。
信長・「天下布武」の「天下」観に密接に関わる問題として、源平交代思想がある。
源平交代思想は足利家の源氏将軍を否定して、それに代わって将軍位を狙う信長によって初めて意識されたとする。
信長ははじめは忌部姓(いんべ)・藤原姓であったが義昭との対立の為、信長の家系を桓武平氏の末裔として世間にも宣伝されたように平氏を称する。
信長は足利義昭を追放しながら、なお義昭の子息・足利義尋を庇護せざるを得なかったのであるが、畿内から室町幕府関係勢力を一掃した天正3年以降、源氏将軍にかわる平氏将軍として本格的な政権を樹立することを目指したのである。???
★★★
信長による、この平氏将軍の試みは征夷大将軍は源氏でなければならないと言う朝廷の巧妙な駆け引きで頓挫することとなる。
このあたりから、本能寺の変の裏側で明智光秀に影響を与えたのが朝廷関係者であるとの説が生まれる由縁である。
それにしても信長が忌部姓(いんべ)・藤原姓として、後に平氏と称するというのは
織田政権を引き継いだ秀吉の「日輪の子」生誕説よりはマトモに思える。
叉、徳川家といえども似たようなものであるとも言われる。