信長55・・・・本能寺の変・・・5
2011年 02月 09日
天正10年(1582年)6月1日信長の命により秀吉の援軍として中国に出陣した光秀は途中で明智左馬助他の一門や重臣斉藤利三・藤田伝五らに決心を打ち明けて全軍を東に向かわせた。
翌・6月2日未明に京都に入った光秀軍13000人は本能寺を取り囲みトキの声をあげて鉄砲を打ち込み攻め込んだ。
本能寺の変である。
戦いつつ死ぬ・・まさに信長にふさわしい死である。
「明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと、上位候」
森蘭丸を初めとする少数の小姓衆以外軍勢を持たなかった信長は弓や槍で応戦したものの肘に傷を受けて御殿の奥に退き、炎の中で自刃して果てた。
★★★
信長は毛髪と言わず骨と言わず何物も地上に残さず消え去る。・・・不思議だ。
本能寺が炎上したのは2時間程度・・・たったそれだけの時間で何物も残さず灰燼に帰すと言うのも面妖である。
このことから、本能寺の地下にある火薬庫に火を入れたのではないかと言う怪説もある。
妙覚寺に居た嫡男信忠も二条城に移って後討ち死にする。
信長49歳・・信忠26歳
戦争に明け暮れていた人生が予期せぬ謀叛により終結した。
腹心こそ、一番用心しなければならない・・・・・君主論・・マキャべリの政治学