信長60・・・本能寺の変・・10
2011年 02月 10日
「日本史の謎」である。
光秀と長宗我部元親。
信長の最晩年、反信長勢力に属する最強の戦国大名は、四国統一を目指して邁進していた長宗我部元親である。
天正3年に土佐を統一した元親は、明智光秀を介して信長と結び、天正9年までには、十河存保等の三好氏一族の勢力圏を除く阿波・讃岐の大部分と、東伊予の宇摩・新居両軍と南伊予の喜多・宇和両軍の4郡を実質的に支配していた。
元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。
信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。
信長と元親の断交の原因は、天正9年6月に置ける信長の三好氏による阿波支配の支持にあった。
天正10年2月9日付けで、信長は武田氏攻撃に関わる指令書を発給するが、それには三好康長に対して四国に出陣するようにという命令が記されている。
武田氏滅亡後、信長は毛利氏・長宗我部氏に対する最終的な掃討を同時に行うことを決意する。
これは両氏が長年に及ぶ対立を解消し同盟を結んだことによる。
一方を攻撃すると、他方が援軍(後詰め)を派遣する可能性があったからである。
同年5月に信長は、神戸信孝を最高指揮官とする四国攻撃軍を組織する。
これによると5月7日の段階で信長自身が淡路経由で出陣し四国攻撃を敢行しようとしている。
又、明智光秀を攻撃軍に加えなかったことも重要で、これは信長があらかじめ長宗我部氏から講和の窓口を奪ったことを証しているものである。
このことが明智光秀クーデターの一因とも言われている。
又、6月2日の本能寺の変によって四国攻撃軍の本隊は渡海することなく自滅してしまった。