明の初代皇帝・朱元璋(しゅげんしょう)-19
2006年 09月 08日
・・・・・とは言え、日本の歴史に大いなる影響を与えた明の初代皇帝・朱元璋の名は、中国の数多いる英雄豪傑の中での知名度は、その偉業にしては驚くほど低い。
秦の始皇帝・漢帝国の劉邦・三国志の英雄達・・・それらとの知名度の違いは、月とスッポン程にもあるといえる。
明の太祖・超巨人・朱元璋(洪武帝)
朱元璋(洪武帝)・絶対君主に
明太祖洪武元年(1368年)8月、元の順帝は大都をすてて漠北に遁走する。
此処に中国全土の統一がなったわけである。その後も元の残存勢力は北辺にあり、時には朱元璋の軍を大破することもあったが、中国本土にまで侵攻してくる事は無かった。
この間の1368年正月4日、朱元璋は応天府 で皇帝の位に就き、国号を「明」、年号を「洪武」と定めた。
この時をもって「明朝」が始まったのである。
朱元璋の選んだ「明」と言う国号には、朱元璋の生い立ちとその組織の性格がよく示されている。
「明」は明教の「明」に通じる。
既に、朱元璋は明教を「妖術」と呼んで紅軍との訣別を宣言していたが、やはり軍の将兵に多い明教出身者には配慮したのである。
時に朱元璋41歳。
25歳で紅軍の一兵士となったにしては、驚くべきスピードと若さである。
天才・織田信長が覇業半ばで倒れたのが49歳。秀吉が天下統一したのは54歳。
徳川家康が将軍宣下を受けて江戸幕府をひらくのが62歳。
朱元璋の天下盗りが如何に早かったが異彩を放っている。
その上、朱元璋にはなお皇帝としての人生があと29年も残されていた。
それを、朱元璋は峻烈過酷な絶対帝政の確立にささげたのである。
朱元璋は皇帝になってからも休む事も無く働いた。
政務を総覧して未明から深夜に至ることも珍しくなかった。
叉、生活は質素を極め、洗いさらしの衣服と粗食で済ませた。
宮廷も簡素そのもの、玉座さえも頭上に皇帝を表す竜の彫り物があるので
ようやくそれと判る程度だった。
朱元璋の禁欲的な生活を支えたのは、あくなき権力欲と自己の政治思想を実現しようとする苛烈な執念だった。
朱元璋は生涯虚飾を好まず、珍品奇物を欲する事が無かった。
しかも、熱心に書を読み、多くの著述を残した。
朱元璋・明の太祖洪武帝は「歴代皇帝の中で最も歴史に詳しかった人物」と言われるほどの博覧強記人物でもあったのである。
朱元璋は、何人にも自己の権力と政治思想の実現を妨げることを許さなかった。
このため、朱元璋が皇帝であった洪武30年間は、中国史上もっとも過酷な粛清の嵐が吹きまくった時代である。
これが、朱元璋の偉業のわりには、不人気の要因である。
しかし、そのためにこそ、明朝は「人類史上最も完備した独裁体制を持つ組織」となり、260年余の命脈を得たのも確かである。