天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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ナポレオン-4

           ナポレオンとロベスピエール

 ナポレオン一家はフランス革命の4年後、1793年6月、コルシカ島を脱出しマルセイユに亡命する。
ナポレオンは当時フランス政権を握っていた急進的共和派のジャコバン党を熱狂的に支持し、ジャコバン派の政治家オーギュスタン・ロベスピエールの庇護によって軍内で昇進を重ねていく。

 1793年9月、砲兵隊長に任じられたナポレオンは、イギリス軍の手に落ちた港町トゥーロンの奪還作戦に加わり、作戦面でも優れた才能を見せ、戦場では自ら大砲を操作して、大殊勲を上げ旅団長に昇格する。

 このトゥーロン攻囲戦での活躍がナポレオンの名を世に知らしめることとなった。
ナポレオンが皇帝への道を歩み始めたのも、まさにこの戦いの時からである。
彼の軍事的才能を実際に見た人は皆、以後ナポレオンが着々と権力の座に近づいていく事を予測している。

 だが、トゥーロン攻囲戦においてナポレオンが行った事は、砲兵隊を合理的に活用しただけだった。それだけでも革命軍の軍事力が飛躍的に増大したのは、それまでの指揮官達の能力があまりにも欠如していたからといえる。

 1793年12月19日に、ナポレオンの大活躍によりイギリス軍を撃ち破り、トゥーロンは解放され、ナポレオンは旅団長に昇進したが、パリではこの時、ロベスピエールがナポレオンを国民軍のパリ指揮官に任命しようと考えていた。

 結局、それは計画だけに終ったが、もしこの計画が実現していたら,翌年、ナポレオンは断頭台の露と消えていたかもしれない。

 なぜなら、翌1794年の7月27日、テルミドール9日の政変によってロベスピエールは逮捕され、翌日処刑されたからである。

 ロベスピエール派と見られていたナポレオンも一時投獄されたが、才能を惜しまれ二週間で釈放された。
天は稀に見るナポレオンの才能を惜しんだのだろう。
まさに運命である。

 以後ナポレオンの新しい庇護者となったのは国民公会議員のバラスである。
この政変の1年余りのちにバラスは総裁政府を成立させ、5人の総裁の一人となった。

★★★
ロベスピエール(マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール
1758.5.6.-1794.7.28.

「清廉の人」革命に人生の全てをかけた人。

 北フランスのアルトワ州アラスに生まれ、弁護士をしていたが、1789年三部会の議員に選出されてから革命に身を投じる。

ジャコバン派のリーダーで、対外戦争よりも革命を徹底させるべきとの理由で、君主制の支配するヨーロッパに対する戦争に反対(1792年4月)し、その後、ルイ16世の処刑判決を招いた。

1793年、ジロンド派が失墜すると、ジャコバン派を率い、革命政府の指導者となった。7月、公安委員会に入り、まもなくその原動力となり、民衆の要求に応えて反対派を次々と処刑するなどいわゆる恐怖政治(テルール)を行った。

また、フランス共和制に敵対する諸君主国に対する戦いを推進した。同士のダントンなどとは違い、賄賂を一切受け付けず、その潔癖なまでの厳格さに、「清廉の人」と言われた。

1794年には反対者のエベール派やダントン派をも粛清した。また、社会組織を深く変革することになる諸法律(ヴァントーズ法)や、恐怖政治を強化する法律(プレリアル法)を議決させた。宗教的には、最高存在の礼拝を創始した。

彼の清廉潔白さと独裁的な気配に不安を感じ、「次は自分だ」と思い込んだ(やましさが身に覚えのある)タリアンやバラスらが中心となって、テルミドールの反動を起こし、ロベスピエール派はあっけなく逮捕、処刑された。
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by kenji1942 | 2007-06-14 10:37 | ナポレオン