本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
「日本史の謎」である。
一説によれば、光秀のクーデターは事前に旧主義昭との連携を確保して行われたものである。・・と言う。
光秀は与力であり縁戚関係にもある丹後の細川氏や大和の筒井氏などは勿論、淡路の水軍管氏や摂津の能勢氏など、相当に多くの畿内近国の領主層に対しても、クーデター以前あるいは直後に合力を依頼したと思われる。
家運を盛り返そうとクーデターに参加した能勢氏ではあったが、光秀の敗戦によって能勢城も落城し、当主能勢頼次もいったんは大和に逼塞したが、天正14年には秀吉につかえ、関が原の戦いや大坂の陣では家康に属して奮戦し、旗本となって子孫相次ぎ明治維新を迎えた。
又、美濃三人衆の一人で信長に追放された安藤守就も本能寺の変に乗じて旧城の美濃北方城(岐阜市北方町)に拠って稲葉良通と戦ったが敗死する。
このように光秀が信長によって鎮圧・追放された領主層や牢人たちとも連絡を取っていた可能性が高い。
尚・信長暗殺に義昭が大きく絡んでいるという説が近来増えてきたことはあるものの、真相は依然として謎の部分が多い。
★★★
小和田 哲男 氏 [おわだ てつお]
光秀単独説の一つは・・・(佐久間・林ら重臣の追放)という事態をまのあたりにし、いずれ中国征伐が終ったあたりで捨て殺しにされるかもしれないという危惧をいだきはじめていたのではないかと考えられる。
(また)政権は源氏と平氏が交代でとるという考え方である。
特に有識故実に通じていた光秀は、自分が土岐源氏の流れをひく明智氏であることに自負をもっていたであろう。
本能寺の変がおきる約一ヶ月ほど前に、信長を征夷大将軍に任命しようという朝廷側の働きかけがあった。
私は、このことが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかと考えている。
・・・つまり、将軍には源氏しか任命されてこなかったそれまでの原則をふみにじる平姓織田信長の将軍任官は、源氏である明智光秀にとっては許しがたいことではなかったかということである。
・・・その意識と、それまでの怨みやら、信長から捨て殺される不安とか、ライバル秀吉に追い越される焦りとかがまぜあった形となり、たまたまわずかの供で本能寺に泊っている信長を討とうという気になったのではなかろうか。
★★★
桑田 忠親 氏 [くわた ただちか]
史学的には余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、・・・光秀迫害の話も、まんざら、否定できない・・・。そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。
信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。
明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。
その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような・・・足蹴にされても、知行をふやしてもらえば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。
だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。
こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなく、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。