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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                  「日本史の謎」である。


本能寺に参戦した武士である、「本城惣右衛門の覚書」は
光秀方武士として本能寺の変に参戦した80歳くらいの丹波出身の老武士が若い頃の武勇談としてあらわしたもの。

 「あけちむほんいたし のぶながさまニはらめさせ申し候時、われらはのぶながさまにはらめさせ申すことは ゆめともしり申さず候そのおりふし、

 たいこさまびっちゅうニ てるもと殿おとりあい それへ すけニ あけちこし申し由申し候 山さきのかたへとこころざし候へば おもいのほか、京へと申し候、我等ハもその折ふし、家康さまとばかり存し候・・・・・・・・・・・」

 これによると、光秀から惣右衛門クラスの家臣には攻撃対象が最後まで公表されなかったのである。

 これは軍事機密の漏洩防止のためと家臣団の動揺を恐れての当然の判断と理解される。
従ってクーデター決行以前においては、ごく一部の上級家臣のみにしか正確な情報が知らされていなかったと考えられる。

 さらにこの戦闘が、「うちすて」・・すなわち敵の首を取る戦いではなく、信長のみを対象としたものであったことも判る。
 
 又、光秀の出陣が、本来は秀吉への「すけ」、つまり秀吉への援軍として派遣されようとしていたことも判明する。

 下級武士のなかでは、信長の命令で家康を亡き者にすると言う風に理解していた節もある。
この「本城惣右衛門覚書」に近似した部分がフロイスの「日本史」にもある。
# by kenji1942 | 2011-02-10 19:39 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。


光秀と長宗我部元親


 信長の最晩年、反信長勢力に属する最強の戦国大名は、四国統一を目指して邁進していた長宗我部元親である。

 天正3年に土佐を統一した元親は、明智光秀を介して信長と結び、天正9年までには、十河存保等の三好氏一族の勢力圏を除く阿波・讃岐の大部分と、東伊予の宇摩・新居両軍と南伊予の喜多・宇和両軍の4郡を実質的に支配していた。

 元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。

 信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。

信長と元親の断交の原因は、天正9年6月に置ける信長の三好氏による阿波支配の支持にあった。

 天正10年2月9日付けで、信長は武田氏攻撃に関わる指令書を発給するが、それには三好康長に対して四国に出陣するようにという命令が記されている。

 武田氏滅亡後、信長は毛利氏・長宗我部氏に対する最終的な掃討を同時に行うことを決意する。

 これは両氏が長年に及ぶ対立を解消し同盟を結んだことによる。
一方を攻撃すると、他方が援軍(後詰め)を派遣する可能性があったからである。

 同年5月に信長は、神戸信孝を最高指揮官とする四国攻撃軍を組織する。
これによると5月7日の段階で信長自身が淡路経由で出陣し四国攻撃を敢行しようとしている。

 又、明智光秀を攻撃軍に加えなかったことも重要で、これは信長があらかじめ長宗我部氏から講和の窓口を奪ったことを証しているものである。

 このことが明智光秀クーデターの一因とも言われている。
又、6月2日の本能寺の変によって四国攻撃軍の本隊は渡海することなく自滅してしまった。
# by kenji1942 | 2011-02-10 10:07 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
               「日本史の謎」である。

 本能寺の変の直前の反信長勢力の実態としては毛利氏の劣勢があげられる。

天正10年5月、信長の中国攻撃軍の最高司令官であった秀吉は、備中高松城(岡山市)に進撃し、ついに同城を取り巻くように織田軍と毛利軍が対峙して、戦況は毛利氏に著しく不利に展開していた。

天正7年以降は、秀吉の調略が奏功し、毛利氏の劣勢が決定的となっていたからである。

 毛利氏を見限って信長に応じた氏族としては、備前の宇喜田氏・南条氏、毛利氏の水軍として瀬戸内海の制海権を掌握していた村上水軍(能島・来島・因島の村上一族によって編成)が分裂し、来島氏が信長に属した。

さらに武田氏を滅亡させた信長が大挙来襲すると言う情報が毛利氏家臣団の崩壊に拍車を駆けていく。

 天正9年になると毛利氏は、僧の安国寺恵瓊を介して講和の道を探り始めた。
最終的に秀吉から示された条件は、係争中の備中・美作・出雲等合計5カ国を手放すことであった。

従って本能寺の変は滅亡の淵にある毛利氏にとっては、まさに天佑とも言える。

 毛利氏が秀吉との深夜から始まる講和交渉を即座に締結したことや、上方めざして進軍する秀吉を追撃しなかったのは、なによりも崩壊寸前の家中を立て直すことこそ、第一の課題であると判断したものである。

 そしてそのことはのちの豊臣秀吉から大きな感謝を得ることとなった一つである
# by kenji1942 | 2011-02-10 08:27 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 一説によれば、光秀のクーデターは事前に旧主義昭との連携を確保して行われたものである。・・と言う。

 光秀は与力であり縁戚関係にもある丹後の細川氏や大和の筒井氏などは勿論、淡路の水軍管氏や摂津の能勢氏など、相当に多くの畿内近国の領主層に対しても、クーデター以前あるいは直後に合力を依頼したと思われる。

 家運を盛り返そうとクーデターに参加した能勢氏ではあったが、光秀の敗戦によって能勢城も落城し、当主能勢頼次もいったんは大和に逼塞したが、天正14年には秀吉につかえ、関が原の戦いや大坂の陣では家康に属して奮戦し、旗本となって子孫相次ぎ明治維新を迎えた。

 又、美濃三人衆の一人で信長に追放された安藤守就も本能寺の変に乗じて旧城の美濃北方城(岐阜市北方町)に拠って稲葉良通と戦ったが敗死する。

 このように光秀が信長によって鎮圧・追放された領主層や牢人たちとも連絡を取っていた可能性が高い。

 尚・信長暗殺に義昭が大きく絡んでいるという説が近来増えてきたことはあるものの、真相は依然として謎の部分が多い。

★★★
小和田 哲男 氏 [おわだ てつお] 

 光秀単独説の一つは・・・(佐久間・林ら重臣の追放)という事態をまのあたりにし、いずれ中国征伐が終ったあたりで捨て殺しにされるかもしれないという危惧をいだきはじめていたのではないかと考えられる。

 (また)政権は源氏と平氏が交代でとるという考え方である。
特に有識故実に通じていた光秀は、自分が土岐源氏の流れをひく明智氏であることに自負をもっていたであろう。

 本能寺の変がおきる約一ヶ月ほど前に、信長を征夷大将軍に任命しようという朝廷側の働きかけがあった。
私は、このことが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかと考えている。
・・・つまり、将軍には源氏しか任命されてこなかったそれまでの原則をふみにじる平姓織田信長の将軍任官は、源氏である明智光秀にとっては許しがたいことではなかったかということである。

・・・その意識と、それまでの怨みやら、信長から捨て殺される不安とか、ライバル秀吉に追い越される焦りとかがまぜあった形となり、たまたまわずかの供で本能寺に泊っている信長を討とうという気になったのではなかろうか。

★★★
桑田 忠親 氏 [くわた ただちか]

 史学的には余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、・・・光秀迫害の話も、まんざら、否定できない・・・。そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。

 信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。

 明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。
その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような・・・足蹴にされても、知行をふやしてもらえば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。
 
 だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。

 こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなく、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。
# by kenji1942 | 2011-02-10 07:23 | ブログ 信長
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                   「日本史の謎」である。

 天正10年のものと推定できる足利義昭の御内書においては、

「信長を討ち果たすうえは、入洛の儀急度馳走すべき由、輝元・隆景に対し申し遣わす条、この節いよいよ忠功を袖んずる事肝要、本意においては、恩賞すべし、よって肩衣、袴これを遣わす、なお昭光・家孝申すべく候なり。」  
6月13日  義昭花押  乃美兵部丞とのへ

 これは山崎の戦いの当日に、小早川隆景の重臣であり毛利水軍のリーダーでもあった乃美宗勝にあてて発給されたものである。
この文章で注目するべきは、冒頭の「信長を討ち果たすうえは・・・・・」と言う部分である。

 ここで義昭は自ら信長を討伐したことを表明し、毛利輝元や小早川隆景に入洛のための軍事行動を要請しているので、乃美軍も奔走するようにと依頼している。義昭も鞆から海路を利用して京都に帰洛を図ったモノと思われる。

 義昭が6月9日付けで毛利輝元と吉川元春及び小早川隆景に宛てて、一斉に出陣命令を発したことと併せて、足利義昭が本能寺の変のクーデターの中心人物であったことが確定されるモノである。

 しかし、義昭の希望を打ち砕くのは、皮肉にもこの乃美兵部丞に御内書を認めた当日に明智光秀が敗退したのであった。
# by kenji1942 | 2011-02-10 07:19 | ブログ 信長