信長 夢の安土城
2004年 09月 15日
現代において眼にするような天守閣は安土城の天主が出来るまで世に無かった。
信長が正式に安土城天主へ「移徒・わたまし」したのは3年後の天正7年5月11日(信長の誕生日)のことである。
安土は琵琶湖南岸の交通の要衝である。
京都までは一日の行程であり北へ向かえば北国道、東へ向かえば東海道に通じているし、南の伊勢、紀伊にも近い。
つまり、東西交通の要路である琵琶湖を押さえ、鉄砲の生産地の国友鍛冶を傘下にし、商品流通の動脈である近江路を確保する拠点であった。
信長は日本全土の戦国大名の領国の上にあって、それらを統合し、大名の全てを信長の望むがままに動かせる中央政権を天下と呼び、それを作りたかったのである。
宣教師のブァリニァーニは安土に着くとまもなく信長に招かれ安土城を参観し、あまりの豪華絢爛さに驚愕するのである。
「信長は中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ・財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパの尤も壮大な城に比肩するものである。城の中央には彼らが天主と呼ぶ一種の塔がある。この塔は七層からなり、内部・外部ともに驚くほど見事な技術によって造営されている。最上層は全て金色であり全てがこの上も無い美観であった。」
その一方でオルガンチーノ達は安土城の脇に建立された総見寺の奥深くに「盆さん」と称する石を置きそれを神のごとく拝ませるのを見て、信長の権勢を神を恐れぬものとして批判している。つまり総見寺のご神体は信長自身であったのである。
「信長はもはや自らを日本の絶対君主と称し、自らが単に死すべき人間としてでなく、あたかも神秘的生命を有し不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを望んだ。」 と。
本邦初の豪壮華麗な安土城はおしむらくも「本能寺の変」の混乱により炎上した。
残るは石垣のみである。