信玄西上 三方が原の合戦
2004年 10月 03日
家康軍もよく闘うがじりじりと圧迫され侵攻される。
信長は佐久間信盛・滝川・平手他3000人の援軍を家康へと派遣するが、織田軍の主力を浅井・朝倉軍に備える為引き揚げていたので信玄と決戦をするなと申し入れていた。
信玄西上の報は反信長同盟を大変活気づけた。
★ただ、信玄の進撃は遠江の城を一つづづ陥落させているので遅すぎるきらいがあり、信玄の出兵は、西上の為でなく実は遠江征服の為に行われたのだと疑う説もある。
12月22日、家康は「岡崎に籠城せよ」と言う信長の反対を押し切って信玄と激突する。
信玄は、家康が籠城をいさぎよしとせずに野戦に打ってでるならそれもまたよし。
真正面から闘えば家康などは物の数ではない、一蹴して尾張・美濃と撃破し信長を背後からつく。
三好三人衆や松永久秀、それに足利義昭の兵も近江に攻め行って来て手を貸そう。
六角承禎だって息を吹き返そう。間違っても家康に遅れを取ることはない。・・・
籠城をすすめる家康の家来達、又信長援軍の将・佐久間信盛らも籠もることに同調する。
そうするほうが良いと言うのは家康も百も承知だった。
しかし、それでは武士の一分が立たない、信玄にも侮られる。
信長だって、いずれの日にかこのことを思い出して侮るかもしれない。・・・・
そして家康は惨敗する。
有名な「三方が原の合戦」である。
「戦争の本質は偶然性にある」・・(ド・ゴール)
戦争は、制作途上の芸術家の作品のように一瞬ずつ生きて動くものであり、あらゆる偶然がそこに参加する。
家康もそんな機微に誘われて無謀な迎撃に挑んだ。
そして惨敗した。
★衆寡敵せず・・・徳川家康軍1万1000人に対し武田信玄2万7000人。
当時の日本最大・最強の聞こえ高い信玄軍に無謀にも家康は戦う。
それも家臣も織田の援将も籠城を勧めているいるのに?
家康が三方が原に迎撃したのはまず信玄に敵対するという意思表明である。
★籠城するという事は何を意味するか?・・・行動こそが目を打つ光り。
家康としては信長・信玄の合戦の勝敗によっては、信長に従うか信玄に従うかを見定めようと言うことだろう。・・・家康も信長も同時にその様に思ったかも知らない。?
開戦を主張したのは家康一人であった。
信長との同盟・・信義に篤い律儀者との家康評だが、三方が原迎激戦はギリギリの選択だったろう。・・・・トップ家康の孤独な選択。
家康は、もし信玄の軍が信長勢と互角に闘える程精強であると判断したら信長を裏切って信玄と手を結んでも良かった。
信長も最悪なら家康と信玄が結ぶというケースも予測していただろう。
そう言う状況下であるから、熟考した結果家臣たちの勧める籠城策は取らず、一見すると無謀とも取れる迎撃作戦を取ったのである。
やはり、いつの時代でもトップの決断は孤独である。
家康の決断は正しかった。・・結果論として信長に味方したものだけがこの戦国時代を生き残り叛いた者は滅亡している。