一向一揆
2004年 10月 08日
百姓と武士が政治の主導権争いをしているのである。
従って信長が理想とする天下布武を実現する為には政教分離をおこなわなければならなかった 。
浄土真宗の一向衆は元亀元年(1570年)本願寺の挙兵以前にも加賀一向一揆・三河一向一揆のように大名などの支配強化に抵抗して一揆を結んで戦った歴史を持っている。
天正2年になると信長に対して明らかに敵意をむき出しにする一向衆は石山本願寺とそれにつながる越前一向一揆と伊勢長島一向一揆だけとなる。
これらの一向一揆には大坂の石山本願寺が進んで後援する。
本願寺顕如は坊官下間頼照を派遣して越前国主とした。又、伊勢長島一向一揆にも坊官下間氏の一族下間頼成を派遣して軍備を強化する。
これは信長との和睦条件に反する。
ここで又石山本願寺が叛旗を翻したのである。
一向一揆での戦いでは「敵」の正体が見えにくい、解放すればすぐ再び敵に戻ってしまう。
そこに信長の一向一揆に対する「根切り・・殲滅」という凄まじい戦いになるのである。
越前一向一揆も長島一向一揆も信長の残忍性を象徴する大殺戮によって壊滅させられ信長の支配するところとなり、一向宗で頑強に抵抗するのは石山本願寺のみとなった。