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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長・・3・・信長とマムシの道三

 天文21年(1552)信長は19歳で父・信秀を失い、危機的状況の中、第二の父とも思っていた平手政秀が天文22年(1553)に諌死する。

 原因は平田政秀の嫡男・平手五郎右衛門と馬をめぐる争いがあったとも、叉、五郎右衛門による信長への背信行為の責任を政秀が取って切腹したとの説もある。

 信秀・政秀と言う理解者を相次いで失い信長は途方に暮れたであろう。
そのような状態の時、第三の父とも言うべき信長の正室・濃姫の父、斉藤道三と対面する事となる。

 二人の対面の場所は互いの国境であり、中立的な立場にあった一向宗・富田の正徳寺である。

 おおうつけと評判であった信長と一度の対面で戦国の英雄・斉藤道三は、信長の器量が尋常ならざる者である事を見抜いた。

「この道三の子供達、将来たわけの門外に馬をつなぐ(家来になる)こととなるであろう」

 道三との対面で、信長も道三の気持ちを敏感に感じた事であろう。
信長は初めて他人に正当に評価された喜びを持って帰国した。
これ以後、道三を父とも師とも頼り、二人の関係は道三の死まで良好に続いた。

 織田信長が、尾張一国を固められずに、部下の侍が800人くらいしかいない時代のことであるが、東奔西走していた時に手薄になる清州城の後ろまきに、道三が自分の将・安藤伊賀守以下1000余の兵をいれて守ってやったことがあった。

 信長の舅とは言え、斉藤道三はかっては敵として戦った相手である。
信長が出陣中に城を乗っ取られかねないと反対する者も多く、家老の林佐渡守はこの処置を不服として他所に引きこもったほどであった。

 あの乱世の時代だから、いかに娘婿とはいえ、弱ければ併呑することに躊躇するようなマムシの道三ではないはずなのに、信長を守ってやった。
撃とうと思ったら撃てるはずだのに。

 道三が信長を何故守ったか。
当時、道三と息子の斉藤義龍との中が険悪となっていて、尾張の中に美濃の敵対勢力を潜ましておこう・・と道三が思ったのかも分からない。

 だが、マムシ・悪人と呼ばれる道三をして、いかなる理由があろうとも、信長を守ってやろうと思わしたのは「信長の発した言葉」にある。

言葉固有の目的は、聴く人に信頼の念を起こさせることにある」・・・・ブルタルコス

 道三をして信じせしめたものが信長の言葉にあったのだろう。
これは、信長の生涯について廻る「人格的威厳」・・の賜物かも知らない。

まさに、オーラというものだろう。l
部下はよく上司を見ているものである。

 弘治2年(1556)助けてくれた道三が、息子に討たれて敗死したとき、信長は、一族間との闘争で危地にあるにも拘わらず出兵する。

大河をこえて出兵したが、ときすでに遅く道三は討ち死にしたと聞こえてきたので退却しなければならない 。・・・・その時800人しかいなかった信長股肱の武士たちは視たのである。

大河を渡るとき、全軍のしんがりを信長自身が務める。
部下が皆大河を渡りきるまで信長は踏みとどまった。

この実態を部下が視たからこそ信長へ信頼は増していく。
そのような危機に対しての信長の行動が幾たびとも無く行われ、あわせて「人格的威厳」があったので、だんだんと信長軍が大きくなっていくのである。



★★★
平手政秀

 織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。

 天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4千貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。

 天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。
天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。

 また三河の安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。

 うつけ者と言われた若年の信長の奇行に手を焼きつつも、根気良く諭し、常々諌めてきたが、信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年(1553年)閏1月13日に自刃した。享年62。

自刃の理由
自刃の理由には以下の諸説があり、はっきりとしない。

①信長の奇行を諌めるため - 美談として有名
②信長の行状が改まらないことに対して責任を感じたため
③長男の五郎右衛門が所有する駿馬を信長が所望した時に譲らなかったことで、主従間で不和が起きたため
④五郎右衛門が信長と対立していた信勝の謀反に加担したことが露見し、自身が責任を負って五郎右衛門を助命するため
⑤他の重臣との権力争いのため

没後
 政秀の死後も信長の行状は改まらなかったが、信長は政秀の死後に沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立し、菩提を弔った。

 政秀には『信長公記』によると3人の男子(五郎右衛門、監物、甚左衛門)があったとされるが、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされている。

 『信長公記』に挙げられている3人が誰に当てはまるかは見解が分かれている。系図の位置が不明な平手長政(孫右衛門)という人物を長男の五郎右衛門に当てはめる場合もあれば、五郎右衛門は養子として弟の政利のことであるともされる。

 娘(雲仙院)が信長の弟・織田長益(有楽斎)の正室となっている。

★★★
プルタルコス

( 46年から48年頃 - 127年頃)
帝政ローマのギリシア人著述家。
著作に『対比列伝』(英雄伝)などがある。
英語名のプルターク(Plutarch)でも知られる。

ブルタルコス名言集

人間は、 自分が他人より劣っているのは能力のためでなく、 運のせいだと思いたがるものだ。.
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偉大なる行為をめざすものは、また大いに苦しまなければならない。
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忍耐は腕力に勝る。いっぺんには克服できないことも、
少しずつ消化してゆけばかならず克服できる。
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逆境にどのように耐えるかで、その人がわかる。
by kenji1942 | 2011-01-21 18:54 | ブログ 信長