信 長・・12・・・鉄砲 雑賀衆
2011年 01月 25日
紀州の根来衆はほとんど信長に味方したが、一向門徒である雑賀衆は石山本願寺に入り徹底的に反信長戦線に力を注いだ。
雑賀衆と根来衆は、鉄砲の使用法に習熟し、傭兵隊として恐るべき猛威を発揮していた。
諸国の大名・土豪に誘われ、転戦して莫大な報酬を受け取ると、鉄砲製造の費用に当てる。
天文13年(1544年)から元亀元年(1570年)までの26年間に、彼らは信長でさえ組織できなかった巨大な鉄砲軍団を結成していたのである。
石山合戦のときの雑賀衆の鉄砲隊は常に2,000丁ぐらいが本願寺の先頭に立っていたらしい。
彼らに一斉射撃をやられると、織田軍の精鋭も退却せざるを得ない。
そう言うすさまじい威力をもっている。
信長はそれを骨身にしみて思い知らされたのである。
それほど深刻な打撃を経験させられて、信長は初めて鉄砲の威力を再認識したのである。
それが、当時の日本一の強大な武田騎馬軍団を、大量の鉄砲の一斉射撃の猛烈な威力によって撃滅することが出来たのである。
鉄砲3000丁を三段に分けての一斉射撃で武田騎馬軍団を撃滅した作戦が、信長の創意であると言われているが、このようにすでに、雑賀・根来の傭兵軍団の先人がいたのである。
鉄砲は東洋に伝来したが、日本のみがその製造に成功した。