信長・・17・・・信長の上洛と朝廷
2011年 01月 26日
永禄11年(1568)9月26日、信長は足利義昭を奉じて上洛する。
信長は織田軍の精鋭を率いて東寺に陣した。是は足利尊氏以来、幕府軍が朝敵征伐の為に出陣する時は、東寺を宿所とするのが慣例になっていたからである。
信長はこれを忠実に踏襲し、これからの織田軍の軍事作戦が朝命を奉じた幕府軍としての行動である事を天下に示した。
信長上洛の7ヶ月前の2月8日に三好三人衆に擁立されて、室町幕府・14代将軍となった足利義栄は織田軍の猛攻の前に敗退し摂津富田で病没する。
是により永禄11年10月18日、足利義昭は第15代征夷大将軍と参議に任じられ、従四位下の位ながら昇殿を許された。
通常昇殿を許されるのは従三位までで、平安時代以来その大半は藤原一門が独占していたが、足利家は北朝を擁立した功績により従四位下ながら参議として昇殿することが認められていたのである。
10月22日、足利義昭はお礼言上の為に参内し、正親町天皇に太刀・馬などを献上したが、無位の織田信長は同行を許されなかった。
時代は下克上の真っ最中であるにも拘らず、天皇を中心とした官位体制は健在で、高位を独占した藤原一門が朝廷を意のままにしているばかりか、寺社と結びついて座や市での既得権益を確保していた。
足利義昭の将軍擁立の最大の功労者でありながら、参内さえ許されないという現実に直面した信長は烈しく怒り、こうした制度を改めなければこの国を変える事ができないという思いが強くなった。
念願の将軍になって大喜びの足利義昭は、信長に副将軍か管領職につく様に勧めるも、頑として応じようとしなかった。
洛中洛外の人々は織田信長の無欲を大いに賞賛したといわれる。
信長は無欲だから義昭の勧めを断ったのではなく、朝廷の位階制の中で従四位下でしかない将軍の補佐役に準じる職など、馬鹿らしくて受ける気にもならなかったのだろう。
信長は官位をあっさり辞退して、生野銀山とか、堺、大津、草津の代官職を望む。
つまり商業権益に着目していたのである。