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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長39・・・ 義昭の挙兵と信玄の死

 義昭の挙兵と信玄の死

 武田信玄が「三方が原の合戦」で大勝する。
元亀3年(1572年)12月22日・家康は無謀にも部下8000人と信長の援兵佐久間・滝川他3000人の合計11000人で、武田信玄2万7000人の軍勢の背後から攻撃をかけた。

 武田軍はただちに応戦して徳川軍を打ち破った。
徳川軍は総崩れとなり信長援軍の将・平手汎秀を初め多数の戦死者をだし、家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰った。 

 家康は大敗した。・・・家康の生涯で最大の敗戦であった。

 足利義昭は反信長同盟の結成に重要な役割を果たし挙兵の機をうかがっていた。
最も戦力的に頼りにしていたのは信玄の西上作戦であったから、三方が原の信玄大勝利を喜んだ義昭は元亀4年(1573)1月、二条御所で挙兵に踏み切った。

 反信長連合軍の包囲網が完成し、信長は四面楚歌の状態に陥る。
この危機を乗り切る為、信長は日乗上人や村井貞勝を使者として、義昭の要求どおりの条件で和議を結ぶと申し入れたが、義昭は拒絶する。
 
 義昭の拒絶にあった信長は3月29日に足利勢を蹴散らして上洛し二条御所を包囲する。
だがここで義昭を殺したら武田や朝倉に停戦に応じさせるきっかけを失うことと成る。
そこで再び和議を申し込んだが、義昭は必死に拒み続ける。

 長い間信長の傀儡であった屈辱に甘んじていただけに、自分が死ぬことで信長を道連れに出来るなら本望だと腹をくくっていたのだろう。

 ここで信長は内裏や公家達の屋敷がある京都の上京を焼き払うと言う前代未聞の恐るべき手段にでる。
義昭を和議に合意させる為に嫌がる朝廷を恫喝し、正親町天皇をして4月5日に関白・二条晴良を勅使として和議の勅命をつたえさせる。

 前々年に勅命和議が成立したとき、信長は比叡山の山門領を比叡山に帰すと誓約しておきながら、約束を反古にしたうえに比叡山を焼き討ちにしたのである。
こんな理不尽な相手に再び勅使を出したなら朝廷の沽券にかかわると日頃軟弱な公家たちもまなじりを決して反対した。

 怒った信長に周囲を取り囲まれて火を放たれた朝廷は、一瞬比叡山の悪夢が脳裡をよぎったのであろう。
朝廷は土壇場までは例え足利幕府が滅んでも自分たちが皆殺しにされるよりもましだと考えていたのであるが、この事態を迎えて翌日慌てて二条御所に和議の勅使を使わしたものでる。

 もし、ここで義昭が和議に応じなかったら、勅命に応じない逆賊と言う事になり、足利幕府を倒す大義名分が立つ。
信長はそれを狙い、上京の焼き払いという恐ろしい手段で朝廷に強要し和議の勅命を出させたものである。

 この勅命和議により四面楚歌の危ない状態からの虎口を脱した信長は、近江の敵を掃討しながら4月11日に岐阜へと引き上げた。

 病を得て帰国していた信玄が信州駒場で没したのは、その翌日であった。
上洛を目指した信玄であるが、翌、天正元年(1573年)・長篠(愛知県)まで進んだところで
病を得て西進をあきらめ、甲斐に帰国途中の天正元年4月12日・信濃伊那谷の駒場で53歳の生涯を閉じ、死に臨んだ信玄は、三年の間喪を秘すように遺言した。

 事実、その葬儀は三年後の天正4年4月16日に菩提寺の恵林寺で執り行われた。
ここに、 信長は最大の恐怖と危機を脱したのである。

 ★★当時の戦力概算。
家康  26万石
信長 166万石 
信玄 200万石

★信玄の病は、肺癌・胃癌と諸説ある。

 又、信玄の死を確信した信長は同盟を結んでいる上杉謙信に宛てて武田軍を挟撃しようという申し入れをしているが謙信の義侠心が許さなかった。

「英雄・人傑とはこの信玄をこそいわん。関東の弓矢、柱なくなり惜しきことなり」・・・北越軍記
by kenji1942 | 2011-02-05 06:28 | ブログ 信長