天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長40・・・義昭の追放

義昭の追放

 義昭は信玄死去の風聞を耳にしたが信長方の意図的なリークと思っていた。
勅命和議から三ヶ月後の元亀4年(1573)7月1日、諸将の決起をうながす為足利義昭が宇治の槇島城で反信長の兵を挙げた。

 義昭は愚かにもこの時点においてもまだ信玄の死を知らなかったのである。
近代戦では、常に情報を制するものが生き残る。
ましてや生きるか死ぬかの戦国時代の勝者には情報網の整備が必須であるが、しぶとさでは信長も一目置く松永弾正久秀などの足利義昭方にはその点で大いに抜かりがあったものと思われる。

 一旦和睦した義昭であるが、信玄は甲府に戻ったものの、又上洛するものと信じあらためて朝倉・浅井・武田に信長追討の命令をくだし再度の挟撃作戦を図ったのである。
自分が起てば信長包囲網が再び動き出すという期待があったからである。

  義昭の近臣・三淵藤英に2000余を与えて二条城を守らせ、自分は家老の槙島昭光の居城である槙島城に3700余を率いて立てこもった。

 信長は7月7日にもう琵琶湖を漕ぎ渡り坂本に上陸を果たす。
元亀4年1月に義昭が第一回・反信長の兵を挙げて信長を危機一髪のところまで追い込んだが、勅命和議によりからくも4月11日に岐阜に帰った信長は5月22日に佐和山城下で大型船の着工を命じる。

 信長は必ず又義昭が敵対すると見ていたのである。
5月22日に着工した船が7月3日に完成し、7月6日に信長がこの舟に乗って出陣したというから並みの速さではない。

 吉田兼見(兼和)が残した「兼見卿記」によれば、長さ二十七間・54メートルもある超大型船であった。
一説によれば、このような超大型船は和船の建造技術では造れず、宣教師などの協力でガレオン船の技術を用いたと思われる。
ガレオン船の技術は、今日の超高速コンピューターの技術に匹敵するような重要機密であるから、宣教師を通してのイスパニアに対する信長の思い切った見返り案があったと思われる。

 それは天下統一後にキリスト教の布教を認めるとか、貿易関係による彼らの利益に貢献するということであろう。l

 信長は予想を上回るほどの迅速さで出兵し、7月12日には二条御所を守る義昭の近臣達を降伏させ、7月18日には義昭の槙島城を攻め落とした。

 義昭は嫡男・足利義尋(よしひろ)を人質に差し出して降伏する。
信長は羽柴秀吉に命じて、反信長勢力の黒幕・近衛前久の潜伏している河内若江城(三好義継在城)に送り届けさした。

 人々は義昭を「貧乏公方」と嘲笑した・・(信長公記)
これ以後暫らくの間、信長は足利義尋を将軍に擁立すると称して幕府勢力の離反を食い止めるのであるが、室町幕府の命脈は義昭の追放によって事実上断たれたのである。

 一方、意気あがる信長は7月21日に京都に凱旋し、村井貞勝を京都所司代に任じ、7月28日には朝廷に奏請して元亀から天正への改元を実現した。

 勅命和議に背いた「逆賊」義昭を討ったことで,信長は朝廷公認の天下人となる権利を得たのである。
 
 そうなれば義昭と同盟を結んでいた浅井・朝倉もまた逆賊ということとなり、その討伐に向かうこととなるのである。
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by kenji1942 | 2011-02-05 06:33 | ブログ 信長