天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長45・・・明智光秀・・4

光秀と長宗我部(ちょうそかべ)元親

 光秀が信長に重臣として優遇されている時、ライバル・秀吉は苦心惨憺しながらも播州を制圧し、備中を押さえ、その前に因幡・但馬・美作を制圧しつつあった。

 そうなってくると今度は秀吉の方が光秀の地位を追い抜いてしまう。
光秀の40万石に対して、秀吉の支配した中国地方の国々は50万石を超えていた。

 また、秀吉には子供がなく、信長の子の秀勝を養子に貰っていた。
秀吉は長浜在城のとき、南殿という愛妾との間に男女二人の子供をもうけたが、いずれも早逝した。
妻のおねに毒殺されたと言う説もある。

 信長は秀吉に所領をやれば、いずれそれが秀勝のものになると考え、惜しみなく領地を秀吉に与えるという構図になっていたこともあり、 光秀は秀吉に先んじられ、その差をちじめられないことを自覚せざるを得なかった。

 その頃、光秀は信長政権と土佐の戦国大名・四国の覇者・長宗我部氏を結びつける外交官として四国政策に深く関わる事となった。

 天正3年(1575年)7月・長宗我部元親は土佐の国を統一した。
元親は引き続き阿波を本拠とする三好勢力の攻略に着手するが、遠交近攻策により、当時天下の実権を握りつつあった織田信長に接近する。

 元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。
信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や、瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。

 天正8年(1580)12月に元親は、大坂から本願寺を退去させたことを祝して、信長に名産の伊予鶏を献上しており、この時点まで両者は友好関係にあり、天正3年以来、元親は四国の最大勢力である三好氏の掃討に取りくんでいた。

 天正3年4月三好康長は信長の軍門の下り河内の支配を任されていたが、長宗我部氏から阿波の奪還を図りつつあり、その取次ぎは羽柴秀吉が行っていた。

 これは当時毛利氏と対峙していた羽柴秀吉が毛利氏の村上水軍に対抗する為、三好氏の水軍力が必要であったので、信長に巧みに働きかけた結果、天正9年6月信長は元親に対して敵の三好氏を援助して阿波の支配をせよと言う、朱印状を発することとなった。

 羽柴秀吉を取次ぎ者とした三好氏の巻き返しにあい、長宗我部氏は苦境に立たされる。
当然怒った長宗我部元親は直ちに織田信長と断交する。

 このことは光秀が担当する四国政策の大転換であり、光秀を苦しい立場に追い込む事となった。

 つまり、これは信長重臣間の派閥抗争の一環と考えられ、羽柴秀吉の凄いしたたかな異才が光るところであり、織田家随一の重臣とみなされていた光秀の強力なライバルとして秀吉が急速に台頭してきた場面である。

 天正10年2月信長は武田氏を滅亡させたのちに、長宗我部氏の掃討戦を行う決意をした。
四国担当外交官として深く関わった長宗我部氏が敗北すると言うことは光秀の信長政権内部における発言権の決定的な低下であり、次には左遷人事が予想された。

この時期になると光秀には信長の手法が見えていた。
それは信長に忠誠を尽くしても一旦政策が変更されると長宗我部氏のように、早くから信長に従い、且つ落ち度の無い大名でさえあっさりと捨てられるのである。

信長の四国攻撃を前にして光秀は人生最大の危機に直面していたのである。
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by kenji1942 | 2011-02-06 20:17 | ブログ 信長