天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長51・・・・本能寺・・1

本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
         「日本史の謎」である。

 信長が室町幕府体制にこだわったのは、天正3年までである。
彼は、天正3年5月に長篠の戦において武田勝頼を徹底的に敗北させ、同年10月に大坂本願寺と講和している。

 そして同年11月には権大納言に任官し右大将を兼ね、将軍とほぼ同等の権限を獲得した。
このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。

 将軍義昭を放逐して後暫くは義昭の子息を立てて利用していたが、この後それも影を潜める。
このような事態を受けて義昭は毛利氏の庇護を求めて備後の鞆に退去する。

 戦争が長期化し大規模化するようになると、長期遠征可能な職業兵とその後方を支える専業農民化を進めなければならない。

 国主大名達は父祖伝来の地・本領を捨てて遠く離れた領地や城を預かる事となる。
その結果武士は本領を引き払い商人・職人と共に城下町に住み知行を貰い、百姓は農村に住み、国家に対して耕作と貢納の義務を負うこととなる。
 
 これは新たなる知行制度を創出し兵農分離を加速させる要因となった。

 後に織田政権を継承した秀吉は天正13年に大規模国替えを行う。織田旧臣でそれまで秀吉とは与力的な関係にあった大名さえ転封によって本領を失う。

 以後天下人の命令で諸大名が全国的な転封を繰り返す。いわゆる鉢植え大名である。

★★★
本能寺の変の少し前くらいには、明智光秀達老臣も粒粒辛苦して築いた領国を追われ転封の恐れを抱いていた。
これらもクーデターの要因となったモノと思われる。
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by kenji1942 | 2011-02-08 08:59 | ブログ 信長