信長54・・・・本能寺・・・4
2011年 02月 09日
「日本史の謎」である。
天正10年(1582)6月日未明、光秀は本能寺を襲撃して信長を自殺させ、さらに二条城を囲んで嫡子の織田信忠を討滅した。
このことは光秀単独の行動だろうか、誰か別の人間と示し合わせての行動だろうか。永遠の謎に迫る為この行動の直近における光秀を取り巻く人間関係を見直してみる。
巷間言われているような、信長の理不尽な光秀いじめが原因で、本能寺に生じた一瞬の隙間に対して光秀がとっさの判断でクーデターを起こした・・・この怨恨説は最近の研究では少数派になってきた感がある。
①光秀から上杉景勝への協力要請の書信
②義昭から小早川隆景にあてて、京都への軍事行動の催促。
③光秀の政権構想は、信長を倒してのち義昭の京都帰還と足利幕府再興である。
④光秀から紀州惣国一揆への出陣要請
これらから読み取れるのは、光秀がクーデターを一瞬の判断で起こしたので無く用意周到に準備の上行動したのだろうと言う推測が立つモノである。