信長56・・・本能寺の変・・6
2011年 02月 09日
「日本史の謎」である。
クーデターへの前触れ 足利義昭の追放
元亀3年9月付けで信長は足利義昭に17ヵ条の意見状を突きつける。
第1条では義昭に朝廷への奉仕を説いており、信長自らを天皇を直接支える武臣と位置づける。
その第10条では、元亀という元号が不吉であるから改元をするようにという勅命が幕府に下ったのにも拘わらずなされていない。
これは勅命を奉ずることが「天下の為」なのだから油断をしてはならない。
第17条では、悪しき御所として殺害された将軍足利義教の例を持ち出して義昭の反省を求める。
「天下静謐」を実現する為に朝廷をないがしろにしないようにすべきことを義昭に認めさす。
このように、義昭と信長の政治的地位が逆転し、元亀4年7月に義昭を追放する。
これは、義昭公方が宇治槙島城(京都市)に立て篭もって「御謀反」したので、信長がやむなく退治した結果、将軍義昭が「御牢人」となったとしている。
このことは、あくまでも「天下」を掌握している信長が「公方」である義昭を支えていたものであって「天下」に従わない「公方」は結局は追放・牢人とならざるを得なかったのである。
信長は義昭を追放した後すぐ様「公方」を否定したのではない。
信長は人質として義昭の子息を「大樹若君」として庇護推戴した。
人物としての義昭は否定したが「公方」そのものを否定してのではない。
つまり、義昭を追放したことにより、室町幕府まで否定したと思われたくなかったと言うことである。
一般的に義昭の追放で室町幕府は終焉したと言うことになっているものの義昭は、その後、備後の鞆で反信長活動を続け、光秀にも食指をのばし後の本能寺の変などにも多大な影響を持っていたのである。