信長59・・・・本能寺の変・・9
2011年 02月 10日
「日本史の謎」である。
本能寺の変の直前の反信長勢力の実態としては毛利氏の劣勢があげられる。
天正10年5月、信長の中国攻撃軍の最高司令官であった秀吉は、備中高松城(岡山市)に進撃し、ついに同城を取り巻くように織田軍と毛利軍が対峙して、戦況は毛利氏に著しく不利に展開していた。
天正7年以降は、秀吉の調略が奏功し、毛利氏の劣勢が決定的となっていたからである。
毛利氏を見限って信長に応じた氏族としては、備前の宇喜田氏・南条氏、毛利氏の水軍として瀬戸内海の制海権を掌握していた村上水軍(能島・来島・因島の村上一族によって編成)が分裂し、来島氏が信長に属した。
さらに武田氏を滅亡させた信長が大挙来襲すると言う情報が毛利氏家臣団の崩壊に拍車を駆けていく。
天正9年になると毛利氏は、僧の安国寺恵瓊を介して講和の道を探り始めた。
最終的に秀吉から示された条件は、係争中の備中・美作・出雲等合計5カ国を手放すことであった。
従って本能寺の変は滅亡の淵にある毛利氏にとっては、まさに天佑とも言える。
毛利氏が秀吉との深夜から始まる講和交渉を即座に締結したことや、上方めざして進軍する秀吉を追撃しなかったのは、なによりも崩壊寸前の家中を立て直すことこそ、第一の課題であると判断したものである。
そしてそのことはのちの豊臣秀吉から大きな感謝を得ることとなった一つである