信長 「武功夜話」・・宗論ー2 仏法とキリスト教
2004年 11月 15日
新発見資料「武功夜話」を考証する。
「武功夜話」・・・仏法とキリスト教の宗論
信長は宣教師から「半キリシタン」と評され、遂に洗礼を受けることは無かった。
しかし、伴天連には手厚い保護を加えると共に、西欧文明の吸収につとめ、
鉄砲による足軽戦法を生み、鉄船を造り、織豊ルネッサンスの新時代を拓いた。
その最初の決断をくだされた地が、岐阜城千畳敷大広間であり、この地は、信長の切支丹政策の発祥の地と言って良い。
岐阜城下、信長居館の大広間で伴天連布教の是非を問う歴史的会議が開かれたのである。
永禄12年4月20日、岐阜城大広間における伴天連宗論に先がけて、
京都妙覚寺において朝山日乗は信長ならびに多くの家臣の前で、フロイス並びにロレンソ修道士と切支丹宗門布教の是非に関して討論した。
この論争に見るかぎり、日乗の宗教的教養は浅薄で、逆上の果てに信長公の刀を
抜いてロレンソに切りかかり、人々から抱きとめられるという大失態を演じた。
岐阜城大広間での宗論時に信長の諮問に答えたのは、朝山日乗ではなく
当時の京の知識人で法眼に次ぐ僧位の高僧・大儒文教院法橋で
「これ南蛮の法力は如何なる念力あるやは知らねども、差し当たり人の道知らぬ畜生国、この者のひろむる仏法しかるべき事とも覚えず、早々に生国にお戻しあるべく候儀、宜しく存知奉り候。」と進言している。