信長最晩年 北国地方・・上杉氏
2004年 12月 04日
「日本史の謎」である。
天正10年4月以来、北国方面の最高指揮官・柴田勝家は佐々成政や前田利家などの与力衆を率いて、この地域で最大の反信長勢力である上杉景勝の越中最後の拠点魚津城(富山県魚津市)を攻撃していた。
信長の上杉氏との戦争は、武田氏攻撃と同時に行われたものであって、甲斐・信濃・越後を一挙に織田領とすべき作戦の一環としてなされたものであった。
上杉氏は天正10年3月に軍事同盟を結んでいた武田氏が滅亡し、さらに上杉氏の有力家臣・新発田重家の信長方への内応と織田軍の猛攻という内憂外患を抱えまさに存亡の危機に直面していた。
このような窮地から上杉氏を救ったのが本能寺の変であった。情報を得た織田軍が魚津城から撤収したことで上杉軍は反転攻勢にでた。
こういう状況があったので柴田勝家は直ちに光秀の討伐に向かうことが出来なかったのである。
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光秀討伐に猛将・柴田勝家が出遅れたのは、強豪上杉氏を徹底的に叩いたせいもあったのだろう。
秀吉の毛利氏に対してなるべく殺戮をやめて調略で戦うと言う姿勢が最後に勝利を呼んだのかとも思える。