細川藤孝 出生の秘密
2005年 01月 15日
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。
★★★
「細川家記」によれば
藤孝は
「天文3年甲午(1534)御誕生、三淵伊勢守晴員主の御二男
実は将軍義晴公御胤、御母は正三位少納言清原宣賢卿の御女也」とある。
宣賢の女は、12代将軍足利義晴の奥に仕えたが寵愛を受けて身篭った。そのころ後奈良天皇は足利義晴に近衛尚通の姫を娶るように言われた。
義晴はやむなく懐妊の婦人を近臣で寡夫の三淵晴員に嫁がせ「産むところの子、男なら養いて汝が継嗣とせよ」と言って、沼田光兼・築山貞俊を付人とし、藤孝出生の後糧米500石を与えたと言う。
藤孝は天文3年4月22日三淵家で生まれた。
実父は第12代将軍の足利義晴である。
足利義晴には、天文5年に義輝・天文6年に覚慶(義昭)が生まれている。
従って、藤孝は将軍義輝(13代)と義昭(14代)との異腹の兄にあたる。
天文8年藤孝6歳の時足利義晴公の命により、将軍お供衆の細川元常の養子となり細川藤孝となる。
細川家は畠山、斯波の両氏と共に三管領の一翼を担った名族である。
藤孝の養父・細川元常は和泉半国守護家を継ぐが、同族間の紛争や三好党の侵略によって累世の所領は押領され、僅かに山城国西青龍寺(長岡京市)の三千貫の地を残すのみとなっていた。
藤孝は養父細川元常に従い、将軍義晴、義輝に仕え、三好党に追われた将軍を護り、近江坂本(大津市)・朽木谷(高島郡)と京都の間を往来していた。
藤孝は天文22年、20歳の時将軍義輝と三好長慶との和がととのっていた短い在京期間の間に、従五位下に叙せられ兵部大輔に任ぜられた。
細川元常は翌天文23年に73歳で死去した為、藤孝は家督と青龍寺城を相続した。