細川幽斎 ガラシャ
2005年 02月 01日
7月に入って石田三成は豊臣家のため家康打倒の軍を挙げることを決意し、佐和山城を出て大坂城に入った。
三成らは、家康東征軍に従軍した武将らの妻子で大坂に残った者達を人質として大坂城に収容することを図った。
レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」によれば
細川忠興の家老小笠原少斎は、もし夫人お玉(ドンナ・ガラシャ)の名誉が危機に瀕した場合には、日本の習慣に基づいて、先ず夫人を殺し、次いで他の家臣と共に切腹せよとの忠興の命令を受けていた。
小笠原家老が夫人に夫の命令を伝えると、ドンナ・ガラシャは運命に忍従して祈祷所に入って祈った。
ガラシャはひざまずいて剣の前に首をさしのべ、家臣は屋敷に火を放ち後に切腹した。
お玉はこの時38歳。父明智光秀の業を背負った半生であった。
7月18日丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し、昨17日、忠興夫人(キリスト教名・ドンナ・ガラシャ)が生害したとの報告が届いた。