秀吉 朝鮮の役(慶長) 講和の破綻と再征
2005年 02月 18日
それに続く幸州山城および前年の晋州城の攻略作戦には失敗しており、海上では李舜臣の水軍によって秀吉軍の軍船・輸送船がおびただしく沈められていた。
秀吉軍にとってどうしても克服できないのが李舜臣の活動であった。
天才的戦略家・李舜臣の水軍の目覚しい活躍は、ただ秀吉軍の戦意をくじくのみならず、その補給線を断つことによって秀吉軍に決定的な打撃を与えていた。
秀吉軍の強み、すなわち全国平定を可能にしていた軍事能力は、兵農分離型の足軽鉄砲隊とその長期遠征を物質的に支える兵站・補給の計画的に整備されたシステムに基づいていた。
李舜臣の水軍は、この秀吉軍の軍事能力の根幹を叩き潰してしまった。
又、陸上においても明軍によって兵糧貯蔵所を焼き払われたりして、秀吉軍はたちまち窮地に陥ってしまった。
こうして秀吉軍は明軍側との講和交渉を余儀なくされた。
石田三成・小西行長と明側沈惟敬の策略で秀吉には明側から折れてきての講和であると説明されていたが、明国皇帝の詔諭の中に「なんじ平・秀吉を日本国王となす」と言うくだりをきいて秀吉が激怒し講和交渉は決裂してしまった。
秀吉はこれにより再び朝鮮半島への出陣を号令し、慶長2年(1597)2月に14万人からなる動員計画を発表した。
すなわち、これを「慶長の役」とす。