秀吉 朝鮮からの撤兵命令
2005年 02月 20日
秀吉はその死を秘匿することを側近に命じて亡くなったが、徳川家康はその日のうちにこれを知り、ただちに嫡子秀忠を江戸に帰している。
これは秀吉の死が遠からず内乱を招くのは必至であり、父子ともに上方の地にいることは、徳川の将来の為に得策にあらずと判断したためだろう。
秀吉死後の当面する大問題は、朝鮮半島にいる大量の将士を日本に帰還させると言う事業であった。
慶長3年8月25日、家康は前田利家とはかって徳永寿昌らを使いとして朝鮮半島に送り、在陣の諸将に朝鮮側と講和の上撤兵する事を命じた。
さらに、石田三成・浅野長政を博多に派遣して、同地で撤兵事業を統括させた。
しかし、秀吉死去の事実は、遠からず朝鮮・明側の知るところとなり、撤退の動きを見せ始めた秀吉軍を追撃戦によって一挙に殲滅しようとした。
ここに、撤退を急ぐ小西行長・島津義弘らの秀吉軍と殲滅しようとする朝鮮・明軍との間に壮絶な戦いが展開された。
関が原の戦いの2年前のことであった。