五代将軍・徳川綱吉 末期養子
2005年 03月 30日
その翌々日(5月8日)には、家綱は死去しており文字通りの末期養子であった。
綱吉政権の初期政治は、これまでの四代にはない直系以外からの将軍襲職から来る緊張感がともなった。
将軍となった綱吉が先ず行った事は、前将軍家綱の死去にともなう「鳴物停止」であった。
「鳴物停止」・「普請停止」とは、貴人の死去に際して一定期間、歌舞音曲や建物の普請などを停止させ、静謐を維持させて慎むことで、停止期間が長いほど死者の権威は高いものと社会全体に認識させる効果を持った。
幕府の狙いは、前将軍・徳川家綱の死に対する慎みを人々に求めたもので、あわせて49日間も天下静謐を命じて、幕府と新将軍の存在の重さを伝えるものでもあった。
新将軍綱吉は、次に幕府権力機構の整備を行なう。
元禄元年(1688)11月には柳沢吉保を側用人に登用し側近政治を行い、従来の譜代門閥大名層による老中合議制を形骸化させた。