人気ブログランキング | 話題のタグを見る

天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

七代将軍・徳川家継  幼児将軍と新井白石

 正徳2年(1712)10月、将軍家宣(いえのぶ)は49歳にして病没した。
4年に満たない政権であったが、綱吉政権の悪政と見られていた「生類憐れみの令」他の諸政策を改めた。

 跡を継いだ息子の徳川家継(いえつぐ)はまだ満三歳二ヶ月の幼児であった。
将軍権力代行者となる側用人・間部詮房(まなべあきふさ)と政策立案者・新井白石は、将軍権威を高める方策として儀礼を重視し、家格の序列を重んじ、将軍個人の人格ではなく、将軍の地位が格式と権威を持つように努めた。

 幼児将軍の権威づけの為に、2歳の皇女との婚約を正徳5年(1715)の春構想した。
父の家宣は近衛家の姫を、前々代綱吉は鷹司家の姫を、4代家綱は伏見家の姫を正室にしていた。幼児将軍家継の権威づけのため、宮家・摂家に上回る格式の皇女を迎えようとしたのである。

 幕府は2歳の仙洞(霊元院)御姫八十宮吉子内親王との婚約と、5年後に江戸下向することとして家領500石を幕府から進献した。 

 ところが、正徳6年(1716)、幼児将軍家継は4月30日突然のように急逝する。
僅か6歳9ヶ月の短い生涯であったが、婚約者の皇女八十宮は家領500石によってその後45歳までの生涯を送った。

 将軍家継を支えた間部詮房と新井白石による政治もここに終わりを告げたのである。
by kenji1942 | 2005-04-02 10:58