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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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大老・井伊直弼

 大老は幕府機構の最高位に置かれた職であるが、常に人が配されてはいなかった。

13代将軍・徳川家定は健康にすぐれず跡をつぐべき男子を得ていない。
将軍の代替わり前後の政情に不安が予測される場合に、これを抑制する役割を期待されて大老が配されるのであるが、家定は安政5年(1858)4月23日に譜代大名第一の名門・井伊家の当主を大老に任命した。

大老・井伊直弼である。

 幕府は朝廷の勅許が得られないのでハリスとの条約締結を延期し続け、幕府側の事情を知るハリスも延期に応じていた。しかし、安政5年(1858)6月13日に下田に入港したアメリカ船ミシシッピ号が「アロー号事件で中国・清と交戦中であったイギリスとフランス連合軍が、清を打ち破って天津条約を結び、そのまま日本に向かうかも知れない」と言う情報をもたらした為、情勢は一変した。

 大老・井伊直弼としては朝廷や世論の反発を避けるためにもう少し時間稼ぎをしたかったが、英仏の動きに危機感をもっていた幕府海防掛岩瀬と井上が即時調印の方針に傾斜し6月19日江戸湾に停泊中の米艦ポーハタン号で朝廷不同意のままに「日米修好通商条約」が調印された。
 不安定な国際情勢の中で急遽結ばれたこの条約は、日本側に関税の決定権が無く、居留地内での治外法権を認めるという不平等条約であった。この後約1か月の間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条約を結ぶのである。 

 条約調印の報告を受けて朝廷は態度を硬化させ、幕府は対処を迫られた。
事実上の井伊大老独裁政権が誕生し、南紀派と14代将軍にを争っていた一橋慶喜擁立派に対する弾圧が開始された。この混乱の最中、7月6日に13代将軍家定が死去する。
南紀派の思惑通り徳川慶福が家茂と改名し、10月24日14代将軍・徳川家茂として就任する
残された課題は、条約調印について朝廷の了解を得ることである。
by kenji1942 | 2005-05-13 22:00 | 幕末から明治維新