曹操 管渡の戦い
2005年 06月 14日
中原一帯はいまや天子を擁する曹操の勢力範囲となったが、黄河以北の強大な地域は袁紹の支配下におかれていた。袁紹は北方の覇を競いあっていた公孫瓚を滅ぼしたのち、南下の機会を狙う。
袁紹にしてみれば、家柄においても実力においても、自分より遥かに下位にあった曹操が天下を牛耳ろうとしているのが許せなかったのである。
至弱をもって至強に当たる。(魏書・武帝紀)
この両雄の決戦が管渡の戦いである。この戦いは中国史上、弱者が勝者に勝った典型的な戦いとされている。
曹操はこの戦いの勝利によって、以後、混迷する政局のなかで最大の発言権を持つようになるのであるが、袁紹の敗因は、敵の曹操を見くびった事と、さらに内部不統一があげられている。
兵、義なれば敵なく、驕なるはまず滅ぶ。(魏書・袁紹伝注)
(正義の戦いは無敵であり、強大さを鼻にかけるならばその軍はきっと滅びる。・・・・・(謀臣の田豊から袁紹への諫言)
年表
199 袁紹、南下を狙う
曹操、管渡の守りを固める
200 曹操暗殺計画が発覚・・董承ら処刑(正月)
曹操、劉備を討ち、劉備、袁紹のもとへ
袁紹大敗し、「管渡の戦い」終わる。(10月)