「信長の柩」
2005年 10月 30日
「信長公記」の著者である、太田牛一は全国に展開した信長軍の諸将からの戦況報告を受け、叉、信長から諸々の指令を発する事務方をしていた。
信長が暦改定を迫った原因
①織田軍の戦線が、東に西に、叉北部へ拡大すると共に、報告書に各地各様の暦が混用され始めた。
信長の指令と報告の間はもとより、報告書にも色々と暦日の矛盾が起きている。
地名の違いも随所にあり、信長に書類を回す前に再吟味するのが祐筆・太田牛一の重要な業務であった。
②当時、日本の暦は季節感が大きくずれていたうえに、各地に不統一な暦が存在していた。
世界的にも「本能寺変」があった1582年が、ユリウス暦を廃して、グレゴリオ暦に変えた年でもあった。
信長はそのようなことを宣教師を通じて情報を得ていたことも併せて、暦の改定(京暦から三島暦)を朝廷に迫ったと思われる。
農民達も仕方なく農耕の為独自の雑記帖などを工夫していたほどである。
この頃の「日食観測」では、欧州と中国は、日時どころか「分の予測争い」を演じていて、結果は欧州の勝利で、中国との予測の誤差は1時間だったという。
ところが当時の朝廷の暦博士は全くの無能・無策で、「日食は不吉の兆し」のみと考え「廃朝」として門を閉じ、休むだけと言う体たらくであった。
それが信長をして「暦の改定」を迫らしたものであり、徒に「天皇専権への侵害」を意図したものではない。
「本能寺の変」の実行犯は明智光秀で決定的であるが、背後の闇にライトを当ててみると、「天皇専権への侵害」と言う観点から近衛前久が関与していた?と言う説もあり、叉、 信長は正親町天皇(百六代天皇)に、誠仁(さねひと)親王への譲位を迫っていた。・・と言う事も朝廷関与説を思わせる要因である。
「信長の柩」の主人公・・・太田信定・・・・
尾張の国山田庄安食の住人、太田和泉守叉介(通称牛一)、信長の弓取り三人衆の一員として、桶狭間合戦に参戦している。織田家から豊臣家に転ず。
表高50貫。祐筆と言う職の為、軍役を免除なので多くの下人を抱える必要がなく、叉外部の記録作りの手伝いの謝礼などの別途の実入りも多く内実は比較的余裕があった。
★アマゾンに於けるある識者の「信長の柩」への辛口評。
大田牛一は信長の右筆ではないというのが資料で明らかになっている。『信長公記』は命令されて書いたのではなく、牛一が個人的に書きつづったものだということになる。
各所に誤った記述などが見られ、これしか残っていないから一級の資料となったと言わざるを得ない。
『信長公記』はこれくらいにして本書。
近衛前久主犯説は安倍龍太郎氏が『信長燃ゆ』ですでに発表してしまっている。
光秀の不可解だった行動と言うのも考え付きそうだ。
題名に惹かれたが、どうも資料探しに時間を取られて時代遅れの作品と見受けてしまう。
目新しさなど全くない。
日々歴史の本に目を通している方は購入するのは勧められない。
あまり歴史の本を読んだことのない方なら読んでもいいかもしれないが、本書の秀吉はちょっとやりすぎだ。いくら生い立ちが鮮明でないとはいえ付け焼刃が過ぎる。
資料の少ない本能寺の変について苦労したことに★2つつけた。
一度読めば十分だろう。