朝倉・浅井の滅亡
2005年 12月 30日
一族の朝倉景鏡に裏切られた義景は天正元年8月22日自刃する。ここに5代100年に渡った戦国大名の朝倉氏は滅亡し城下町一乗谷も焼け野原となった。
先に寝返っていた朝倉氏の旧臣・前波吉継が「守護代」として越前一国の支配を信長から任された。
信長は朝倉氏を滅ぼすとただちに近江に軍を返し浅井長政一族を討滅する。
このとき浅井長政の妻となっていた信長の妹お市の方は長政の説得をいれ三人の娘とともに城を出て信長のもとに引き取られる。
ここに反信長同盟は瓦解し信長は最大の危機を脱することとなる。
★ちなみにお市と娘達は信長の弟信包に預けられて不自由なく暮らした。
そして本能寺に信長が倒れて後、お市は柴田勝家に嫁したものの勝家と自害をともにする。
長女茶々は秀吉に嫁して秀頼を産み淀殿とよばれる。
次女初は京極高次に嫁し、末娘の小督(こごう)は従兄弟の佐治与九郎に嫁すもさまざまなめぐり合わせにより家康の嫡男徳川秀忠の妻となり家光を産む。