信長資料 南伊勢・北畠家の攻略・・織田信雄
2006年 01月 17日
信長・秀吉の新事実について検証した初めての本
新発見資料「武功夜話」を考証する。
「武功夜話」・・・・織田信雄を北畠家の養子に入れる
尾張一国を平定した信長は、永禄11年2月岐阜を発して伊勢路に入り、本格的な伊勢平定に乗り出す。
信長の伊勢平定は、兵力に物を言わせての力攻めでなく、その経過を見ると斉藤道三の美濃一国の国盗り物語にも優る国盗りである。
伊勢横領作戦では極力兵力の消耗を避けて権謀術数を巡らしお家乗っ取りを策す。
まず北伊勢神戸城の神戸氏を攻め、永禄11年(1568年)2月降伏に追い込み、三男信孝を養子に入れた。
次いで安濃郡に勢力を張っていた長野氏も降伏させ、弟信包(のぶかね)を養子として上野城にいれた。
さらに、再度の上洛から岐阜に戻った信長は伊勢侵攻を再開し永禄12年(1569年)10月には南伊勢の北畠氏を降伏させ、北畠具教の6女雪姫(10歳)と二男信雄(12歳)を婚約させ養子として大河内城に入れた。
元亀3年2月、織田信雄は雪姫と田丸城で祝言をあげ、雪姫は以後「千代御前」と呼ばれたとある。
両者の間に生まれたのが織田秀雄であり、信雄が秀吉に許された後、秀雄は越前大野城五万石を与えられた。
信長の伊勢平定は、一族を養子に送り込んでのお家乗っ取りであり、国盗りである。
その背景には南朝の忠臣北畠親房以後8代に亘る伊勢国司家は、名族という家柄に安住して、軍事的基盤が弱く、下克上の戦国大名、織田信長に屈服せざるを得なかったといえる。 "