信長最晩年 四国地方 元親と断交
2006年 01月 26日
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
「日本史の謎」である。
信長の最晩年、反信長勢力に属する最強の戦国大名は、四国統一を目指して邁進していた長宗我部元親である。
天正3年に土佐を統一した元親は、明智光秀を介して信長と結び、天正9年までには、十河存保等の三好氏一族の勢力圏を除く阿波・讃岐の大部分と、東伊予の宇摩・新居両軍と南伊予の喜多・宇和両軍の4郡を実質的に支配していた。
元親から信長への取次ぎを一貫して光秀が行っていた。
これは光秀の重臣・斉藤利三の実兄・石谷頼辰の妹が元親の正室であったことによる。
信長が元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で抵抗を続ける三好一族や
瀬戸内海の制海権を握る毛利氏に備える為であった。
信長と元親の断交の原因は、天正9年6月に置ける信長の三好氏による阿波支配の支持にあった。
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