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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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本能寺の変 長宗我部元親と断交


       本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
                     「日本史の謎」である。

天正3年7月長宗我部元親は念願の土佐の統一を完成した。
次の目標は隣接する阿波の三好勢力の攻略であり、元親は明智光秀を取次ぎ役とする遠交近攻策を採用し天下の実権を掌握しつつあった織田信長に接近する。
信長が長宗我部元親と友好関係を結んだのは、阿波や讃岐で依然として抵抗を続ける三好氏や瀬戸内海の制海権を掌握しつつあった毛利氏に備える為である。

元親は天正3年以後四国の最大勢力である三好氏の掃討に取り組んでおり、信長も了承していた。しかし、天正8年における大坂本願寺の没落以後、情勢は一変する。
畿内近国において残る反信長勢力は紀州惣国一揆のみとなったからである。

信長は本格的に高野山を攻撃して紀州惣国一揆の解体を図る。
その紀州惣国一揆に属していた雑賀二組(雑賀荘・十ヶ郷)は以前より元親と結びついていたこともあり、紀州惣国一揆と元親は同盟を結んでいたのである。

天正9年における信長の四国政策の変更、すなわち三好氏による阿波支配の
支持は紀州惣国一揆撲滅作戦であり、必然的に反・長宗我部作戦となるのである。

天正3年4月には三好康長は秀吉を取り次ぎ役として信長に属しているあたりから羽柴秀吉は元親攻撃方にまわり、親・長宗我部の明智光秀と暗闘すると言う信長重臣間の勢力争いも複雑に絡んでいる。

ここに元親と信長の断交が行われて、取り次ぎ役の明智光秀の苦悩が始まり、最終的な本能寺の変へと展開して行くのである。
★★★
戦国の英雄・秀吉と光秀の政治的な暗闘が怜悧な頭脳をもつ信長の思考回路に多大な影響を与えるのである。
秀吉の政治的駆け引きの凄みが光秀を凌ぐ場面がおおくでてくる。まず、甥の秀次を三好康長の養子にして、又、信長の4男秀勝を秀吉の養子に貰いうけて信長の信頼を勝ち取っている。これらのことが信長の四国政策の変更をもたらしモノと推測される。
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by kenji1942 | 2006-01-30 10:41