本能寺の変 光秀・左遷の予感
2006年 01月 30日
本能寺の変は突発的な事件であったのだろうか?
「日本史の謎」である。
光秀は、きたるべき中国・四国攻撃ののちの自己の処遇について大いに不安だった。
最大の懸念は光秀が取り次ぎ役として深く関係した長宗我部元親が信長に敗北すると、信長政権での光秀の発言力が大きく低下することを意味する点である。
長宗我部軍の敗北は、織田軍と長宗我部軍の軍事力・経済力を的確につかむ光秀から見れば容易に予感できたことである。
それに追い討ちをかけるように光秀を懊悩させるのが近い将来の国替えである。
例えば大坂本願寺の紀州退去後の天正8年9月の時点で、信長が摂津茨木城主の中川清秀に中国平定後の恩賞として「中国一両国宛行うべし」との朱印状を発給していたように光秀も国替えも強制されることは確実であった。
転封と言うことは、近江の所領は勿論、天正3年以来苦労して手に入れた丹波からも離れねばならず、与力であった諸大名がそのまま彼に付属される可能性は極めて薄かった。
畿内からの転封は、朝廷との交渉や京都支配などでのその才能を遺憾なく発揮していた光秀にとって、活躍の場を取り上げられること、すなわち左遷を意味したのである。
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