本能寺の変 本城惣右衛門の覚書
2006年 02月 02日
「日本史の謎」である。
「本城惣右衛門の覚書」は
光秀方武士として本能寺の変に参戦した80歳くらいの丹波出身の老武士が若い頃の武勇談としてあらわしたもの。
「あけちむほんいたし のぶながさまニはらめさせ申し候時、われらはのぶながさまにはらめさせ申すことは ゆめともしり申さず候
そのおりふし、たいこさまびっちゅうニ てるもと殿おとりあい それへ すけニ あけちこし申し由申し候 山さきのかたへとこころざし候へば おもいのほか、京へと申し候、我等ハもその折ふし、家康さまとばかり存し候・・・・・・・・・・・」
これによると、光秀から惣右衛門クラスの家臣には攻撃対象が最後まで公表されなかったのである。
これは軍事機密の漏洩防止のためと家臣団の動揺を恐れての当然の判断と理解される。
従ってクーデター決行以前においては、ごく一部の上級家臣のみにしか正確な情報が知らされていなかったと考えられる。
さらにこの戦闘が、「うちすて」・・すなわち敵の首を取る戦いではなく、信長のみを対象としたものであったことも判る。
又、光秀の出陣が、本来は秀吉への「すけ」、つまり秀吉への援軍として派遣されようとしていたことも判明する。
下級武士のなかでは、信長の命令で家康を亡き者にすると言う風に理解していた節もある。
この「本城惣右衛門覚書」に近似した部分がフロイスの「日本史」にもある。 "