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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長の一族  嫡男 織田信忠

織田信忠は、弘治元年(1555年)正月に織田信長を父に、生駒家宗の娘・吉乃
を母にして尾張国丹羽郡小折村(愛知県江南市)の生駒屋敷に生まれた。
幼名を奇妙丸と言う。
吉乃は茶筅丸こと二男・織田信雄、娘・五徳を産み、永禄9年に39歳で病死する。

天正10年(1582年)織田信忠は甲斐武田攻めの時には、まず岩村城を抜き、3月2日には、武田勝頼の弟で仁科五郎盛信が守る難攻の要塞として知られた上伊那郡の高遠城を激しい攻防戦の末わずか一日で陥落させた。
喜んだ織田信長が「梨地蒔の太刀も天下も与えようぞ」と口走ったほどである。

続いて信忠は、諏訪上社に火を放ち、さらに新府城から落ち延びる武田勝頼一行を追撃し、3月11日には天目山で勝頼を自刃に追い込んでいる。
そして恵林寺に近江の佐々木義治が潜んでいると知って、その引渡しを求めて拒否されるや、住職快川和尚ら70人を山門に閉じ込めると火を放って悉く焼き殺した。

天正10年5月29日織田信長は馬廻小姓衆70余人とともに安土城を出て入京、
本能寺に宿をとり、嫡男・城の介信忠も二条妙覚寺に入った。
二日後の6月1日には、関白近衛前久ら堂上公卿が姿を現したのを皮切りに大勢の人が信長の上洛を賀し、次いで名茶器の披露が始められた。
その後酒宴となり、これに囲碁が加わり宴は深更に及んだ。

信忠が二条妙覚寺の宿所に引き取ったのは、既に6月2日に日付の変わった深夜であった。
寝入ってまもなく近侍の小姓に本能寺の異変を告げられた信忠は、直ちに妙覚寺をでて近くの二条御所に移った。
二条御所は天皇のお子誠仁親王の御所として建てたから明覚寺よりも防御力はあるが
弓鉄砲が無かった。

信忠軍は太刀を頼りに戦うものの忽ち明智軍に攻め込まれる。
天下人織田信長の嫡子らしく信忠は果敢に戦い身に弓鉄砲の傷を受けながらも屈せず太刀を振るったが、ついにこれまでと思い定め近侍の鎌田兵介に介錯を頼んだ。
時に織田信忠、弱冠26歳であった。

★★★
本能寺の変のおり岐阜城にあった信忠の嫡男・(三歳の三法師)は、前田玄以により清洲城に隠された。
三法師(織田秀信)は山崎合戦を経て、清洲会議で織田家の家督相続者になったものの有名無実。
文禄元年(1592年)に岐阜城城主になったものの、その禄高は13万石であった。
織田秀信は関が原の戦いで西軍に与し、篭城したのはよかったが程なく落城、降参して剃髪し、高野山で慶長10年(1605年)5月8日に没している。
享年26歳である。・・・くしくも父信忠と同年であった。

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by kenji1942 | 2006-02-14 10:25