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天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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信長の一族  三男・織田信孝

信孝は次兄の信雄よりも20日ほど早く生まれていたが、生母の身分が信雄の母吉乃よりも低かった為、三男とされた経緯があった。
信雄と同様、北伊勢の名族「神戸」氏を継ぎ、信長の合戦にも度々出陣して武功をあげ、世間の評判としては次兄信雄よりも力はあるだろうと思われていた。

天正10年2月、四国征伐の事実上の方面軍司令官に任じられた信孝は、副将・丹羽長秀と総勢14000の軍勢をもっていた。
6月2日、まさに四国へ攻め込もうとしたその時、本能寺の変が勃発した。

織田信忠の兵力はわずかに光秀の軍勢を上回っていた。
もしこの時信孝が自軍をまとめて光秀征伐に向けていたら信孝の生涯は全く別の展開をしたと思われる。
ところが、信長の死をしった信孝軍14000がいたずらに混乱してパニックに陥りあらかたが逃亡してしまった。
信孝はやむを得ず、備中高松から「中国大返し」をやって尼崎に着陣した秀吉軍2万人に合流している。

織田信孝には自軍をまとめる将器を持ち得なかったと言うことであろう。
尚・秀吉主導の山崎の戦いにおいて信孝に付き従った軍勢は4000に過ぎなかった。
山崎の戦いの後、清洲会議では美濃一国の主、岐阜城主の地位を確約されたが天下人に押されなかったことに不満を抑えられなかった。
その為柴田勝家と組んで秀吉に対抗したものの、賎が岳の戦いで勝家が敗れ北の庄で滅亡すると信孝は岐阜城を開いて降参する。

秀吉にそそのかされた次兄織田信雄の命により尾張内海の大御堂で切腹させられる。
享年は兄信忠と同じ26歳であった。

時世の句は怨嗟に満ちている。
 「むかしより 主をばうつみの うらなれば むくいをまてや 羽柴筑前」
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by kenji1942 | 2006-02-16 05:34