信長資料 細川藤孝 信長に臣属確定
2006年 02月 26日
「細川家記」によれば
元亀4年3月10日、義昭は信長よりだされた質子を返却して断交した。
義昭は信長の使者を追い返し、武田・上杉・浅井・朝倉をはじめ、五畿内・四国・西国にまで信長追討の御内書を下し、石山・堅田に要害を構えた。
信長は止むをえずして軍勢を差し向け石山・堅田を攻め落とした。29日荒木村重が信長のもとに馳せ参じる。このとき藤孝は青龍寺城に在城していたが、信長の招きがあっても出て行かなかった。
藤孝は信長の度々の催促の使いがきたので心ならずもしぶしぶ信長の前に
出て行く。信長はこのとき藤孝へ貞宗の脇差を贈った。
ここに藤孝の信長への臣属が確定した。
義昭が信長に逆らい旗揚げを決行するにあたり、最大の後援者としていた武田信玄は、野田城攻略の陣中に病み、本国甲州に帰る途中4月12日・信濃下伊那郡駒場で死去した。
行年53。喪は遺言により3年秘された。
一旦和睦したが7月に入って義昭と信長の和順が破れ、義昭は宇治槙島に立て篭もった。
藤孝は「信長に属すること止む事を得ざるなり。戦場に臨むに忍びず」と申し出たので信長はその志を感じて藤孝を残し置いて、急ぎ槙島城を囲み激しく攻め立てた。
義昭は勢いを失って降を乞い普賢寺に入り剃髪し、法名を昌山道休と称した。
ここに室町幕府は実質的に崩壊した。
しかし、征夷大将軍の地位は朝廷に返還せず、又求められもしなかった。 "