信長資料 細川藤孝 信長より丹後の国を賜る
2006年 02月 27日
藤孝と光秀は安土に呼ばれ、信長から両人が丹波・丹後を治定した次第、その功が速やかであったことを褒められた。そして丹後は藤孝に、丹波は光秀に賜ることとなった。
藤孝と光秀は太刀・馬および品々を進上して感謝した。
「細川家記」によれば
藤孝が丹後の国を拝領して安土に御礼に登城した時、嫡子・細川忠興も同行した。
信長は忠興に向かい「丹後の国は親の藤孝に与えたものではなく、其の方に遣わした」
と言ったと忠興は後年に語っている。
「十六歳の我に是の如き事、心魂に徹して忘れぬ」との事であった。
信長が藤孝を義昭から訣別させて自分の陣営に引き入れたのは、信長が上洛した当時、不案内であった幕府の施政、禁裏と武家との関係、伝統の帳に隠れた公家の内情、洛中・洛外の住民意識を探知する触手の役割を務めさせる目的からであった。
もはやこの時期、信長から見れば藤孝のその役目は終わった。
又、藤孝も自己の存在意識を公家や上流社会における古今伝授や、連歌・芸能の世界に転移しつつあった。
そのような藤孝は信長にとって、もはや利用価値を認め難い者となっていた。
それでも信長は切り捨てずに、息子の忠興に目をかけるようになったものと思える。
藤孝47歳のことであった。
"