細川藤孝 本能寺の変 天正10年6月1日
2006年 03月 03日
光秀は17日に安土から本城の坂本に帰った。
当時足利義昭は鞆にあって虚名ながらも征夷大将軍の権威を以って幕府再興の最後の夢を御内書や密使の派遣によってかき立てていた。
その声が光秀に届かないことは無いだろう。藤孝はその声に耳を覆っていたが光秀の心は動いたのではあるまいか。
ちょうどその時、信長の身辺は軍事的に無警戒の状態にあった。柴田勝家は北国にあって上杉氏と対陣、滝川一益は関東管領として北条氏と上野国において対陣、丹羽長秀は信孝と共に四国討伐の渡海準備中であり、秀吉は備中高松に釘付け状態にあった。
信長の周辺にあったのは、光秀とその組下の藤孝・忠興・池田常興・筒井順慶らの軍勢のみであった。
光秀は心中に高まる「天下人たらむ」との武人としての心のうめきに抗し難いものを感じ、又迫りくる信長の人事政策の転換を察知し心の震えも感じていた。
藤孝はその空気を薄々察知しながらもそ知らぬ体にあった。
「信長公記」
5月29日、信長は小姓衆を2,30人を引き連れたのみで京へ向かった。
京から直ちに中国へ進軍するので他の残った者は出陣の用意をして一報あり次第出発する態勢を整えておくようにとの命令によって上洛のお供の軍勢は無かった。
「兼見卿記」
5月29日の条によれば、信長上洛を迎える為に吉田兼見は子息の兼治を伴い山科まで出向くと雨が降り始めた。午後2時信長は入洛したが、その前に「出迎えの衆は帰るべし」との通知があったので皆は急いで帰宅した。
信長の供勢が少数であることは直ちに光秀に知る所となった。光秀が決行の判断をしたのはこの時点だと思われる。
翌6月1日、信長へ御礼のため諸家は参上したが兼見は吉田社及び斎場所で常の如く神事を執行するので罷り出でず明日御礼を申しいれる所存であると日記に記した。
"