不屈の念仏者 親 鸞-5
2006年 04月 11日
親鸞は
①いくら浄土に生まれるという事が判っても、実は俺は死にたくない。
とか、
②俺はこの欲望を捨てきれない。
などと言う。・・・でも、そう言う人間だからこそ仏のすくわれるのだ。・・とも。
親鸞は、自分の身がある限り苦しみつづける・・と言う所から眼をそらさない。
宗教的な救いの体験は親鸞にも明確にあるが、だからと言って、この社会を生きる問題が全部解決するわけではない。
親鸞は自分の無力さに悲しんで、それでも何とかならないだろうかと苦悩し続ける。
だから親鸞は、よくよく考えたら仏は何の為にいるのか?・・と自問して
「俺の為だ。」
「俺のような人間のためだ」・・・と思いあたる。
阿弥陀仏の光に照らされて、自分というものがくっきりと浮かび上がる。
その時、苦しみがなくなるのではなくて、しっかり苦しみを引き受けられるよう自覚できる。
それが救いと言う事かも、、また悟りと言う事である。・・と言える。
しかし、だからと言って「自分が悟ったその時から画に描いた聖人」のようになって、欲望をすてきって生きていけるわけではない。
生きていくかぎり苦悩はずっと続くのです。
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