天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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徳川吉宗  悪代官・・「ゴマの油と百姓は・・・・・」

 享保(きょうほう)の改革とは、当時3000万人と言われる国民の生活をいかに維持し安定させていくかと言う点に関しての吉宗の強い意欲と決意のもとで行なわれた。

 吉宗は幕府中心の「大きな政府」・「強い政府」と言う、国家主導の道を選んだのである。
享保の改革を貫く将軍吉宗の強力なリーダーシップ、国家主導による規制や負担の増大は、こうした方向を強く示すものであった。

 吉宗のブレーンであった荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、「享保の改革」の課題を
①「統治体制の強化」・・・将軍権力の強化
②「幕府財政の再建」を柱として、これを実行する為
③「官僚システムの整備」 

 この中の②の「幕府財政の強化」として・
吉宗の財政再建の基本は、倹約による支出抑制と、増税による収入増加である。

 1732年頃になると「享保の大飢饉」と呼ばれる西国の飢饉や、過剰米による米価暴落などの為に幕府財政は再び悪化した。
これに対して吉宗は(元文2年)1737年勝手掛老中に松平乗邑(のりさと)を任命し、改めて年貢の増税に取り組むことにした。

 松平乗邑のもとで諸政策を積極的に展開したのが、勘定奉行の神尾春央以下の勘定所官僚群であった。

神尾春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と語った人物とされ厳しい年貢増徴で知られる。

 享保の改革の結果、幕府の年貢収入は大きく伸び、1744年(延享元年)には180万石となり、統計が残る近世中・後期の最高値を示した。
然し、改革後期の松平乗邑の強引な増税は庶民の不満や批判を増大させた。しかも年貢米の急増はかえって米価を低落させ、米を売って生活する武士や農民にとって実質的な収入減となた。

 旧来の重農主義である新田開発、すなわち耕地からの年貢増徴と言う、近世初頭の増収方式はこの時期限界に達していたのである。
こうした中で、田沼意次が台頭し、幕初以来の伝統的な重農主義から、流通面に新たな財源を求める重商主義へと大きく転換する事となるのである。
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by kenji1942 | 2006-04-23 11:10 | 江戸幕府