天才!信長から歴史の散歩道へ


by tyuzuki715
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江戸幕府を滅ぼしたのは誰だ!

 1853年6月3日・浦和沖に来航したペリーの使節にたいして幕府は長崎への回航を要請した。
ペリーの使節はこれを拒否して江戸近郊での親書の手交を主張し、艦隊を進出させて威圧を加えた。

 6月9日・ペリーが配下の将士を随えて浦賀の僅か南方の久里浜に設営された応接所に入った。双方無言のうちに大統領の親書の授受が行なわれたが一時間に満たない応接である。

 回答を得る為の半年後の再来を告げて12日にペリーの艦隊は江戸湾を去った。これにより紆余曲折はあるものの幕府の衰亡が始まるのであった。

 交易による経済の混乱は、是より6年後開港があった1859年(安政6)以降であり、軍事上で敗北するのは、是より10年後、すなわち長州藩が関門海峡で外国艦隊と交戦して敗れ、薩摩藩が鹿児島湾で外国艦隊と交戦して敗北する1863年(文久3)のことである。

 つまり1853年のペリー来航時には、経済の混乱があったわけでも軍事上の敗北があったわけでもなく、単に久里浜に上陸して大統領の親書を手渡したに留まるのである。

 福地源一郎は「幕府衰亡論」のなかで、次ぎのような断案を下している。

 「1853年(嘉永6)の米使渡来に際して、幕府もし是を朝廷に奏せず、諸侯に問わず、水戸殿にも相談せず、全く御老中御用部屋(幕閣)の評議、和をもって処分を定め、断然通信・通商を許可すべしと約して、開港条約までも取り決めたらんには、朝廷といえども諸大名といえども、是すなわち幕府大権内の事と思惟して、いささかも是に異議を鳴らさざりしならん。

 しかるを事此処に出でずして、幕府が家康公が制定し置かれたる将軍専裁の政体を固守せずして、是を朝廷に奏し、諸侯に諮ると云える新体制に変更したるが幕府衰亡の一大原因なれば、すなわち進取の為に滅びたるものに非ずや」との断案である。

 幕府は保守の為ではなくして進取の為に衰亡したとの表現は必ずしも逆説ではない。

ペリーの来航に接して、時の幕府はなんらの決定を下さずに、是を朝廷に奏聞し、将来の対策を諸侯に諮問した。

この行為のそれぞれが、朝廷の政治化と諸侯の自立化を促進したことは確かな事実であった。
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by kenji1942 | 2006-04-25 08:29 | 幕末から明治維新