安政の大獄
2006年 05月 01日
続いて徳川慶福を後継将軍に指名し、将軍継嗣問題で争っていた一橋派の島津斉彬・松平春嶽・徳川斉昭らを処罰する。
この時結ばれた通商条約は、治外法権を認め、関税自主権を放棄するなど、日本にとっては不平等なもので、後々に大きな問題を残した。
尊攘派は井伊直弼が無許可で条約を結んだ事に激しく反発しました。
これに対して井伊直弼は、幕府に反対する勢力を一掃しようと、1859年、吉田松陰・橋本佐内らを処罰する。これが世に言う「安政の大獄」である。
最初の逮捕者は安政5年(1858)9月7日に京都で捕縛された小浜藩士で朝廷内部に影響力を持っていた梅田雲浜であった。
大名では前水戸藩主・徳川斉昭に永蟄居、松平春嶽に隠居、山内容堂に慎みが言い渡された。
倒幕のあらぬ疑いを掛けられた水戸藩に対しては特に追求の手が厳しく、家老・安藤帯刀に切腹、藩士・鵜飼、茅野は死罪に処せられた。
なかでも有名なのは、越前藩主・松平春嶽の命を受けて京都で奔走していた橋本佐内です。彼の行動は全て一橋慶喜を次期将軍とする事を目的としたものであり倒幕目的ではなかった。
橋本佐内と共闘体制を組んで京都で活躍していたのが西郷吉之助(隆盛)です。
西郷は協力者である僧・月照とともにいち早く京を脱出し薩摩へ逃れますが、月照をかくまい切れないことを悲観して錦港湾で投身自殺を図ります。
月照は死に、辛うじて生き残った西郷は藩によって奄美大島へと流され、この処置によってなんとか幕府の追及から逃れる事ができた。