15代将軍 徳川慶喜
2006年 05月 03日
慶喜は外国代表との謁見式開催も宣言する。
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国のうち、大坂城で最初に謁見したのはイギリス公使のパークスであった。
外国公使たちの謁見はヨーロッパの流儀によって行なわれた。
ロースト・ビーフ、トリュフ入りハム、ツグミのワイン煮、メレンゲの泡立ちクリームかけなどなど数多くのメニューの西洋料理が供され、そして別室で食後のコーヒーが出された。
イギリス駐日公使・パークスとの謁見は約3時間半に及んだが、 若き通訳官アーネスト・サトーの抱いた慶喜の印象は、「秀でたひたい、形のよい鼻、まさに紳士そのもの」であった。
慶喜はその識見と人間的な魅力とによって、数多くのアジア外交の舞台を踏んできた歴戦の古強者・英駐日公使パークスを強くとらえてしまった。
社交においても修羅場を踏んできた慶喜は、武士としての日ごろの練達を発揮したのである。パークスは本国外務次官に「徳川慶喜は日本の最も優れた人物であり信頼に値する」と報告した。
通説ではフランスが幕府に近づき、イギリスが幕府を見限って薩長両藩と親しくなったと叙述されるものの、フランスのロッシュ外交が、慶喜の改革を指導したという見かたに最近の研究は懐疑的である。フランスの外務省がロッシュを支持していなかったことが明らかにされているのである。
この頃のイギリスの対日外交の基本は「ただ貿易の発展」であり、「政治的影響力の行使」を欲していなかった。
イギリスの外務省は日本への「いかなる形の内政干渉」も、繰り返し厳重に禁止していた。
イギリスが薩長と「親密」と言うことは無かったのである。 "