ブログ 信長 17 足利義昭の「鞆幕府」の崩壊
2006年 10月 18日
「本能寺の変」の裏参謀は明智光秀をそそのかした足利義昭ともいわれている。
信長を討った光秀も、羽柴秀吉に敗れる。
備後の国・鞆にあった足利義昭は、信長滅亡後の織田家中の情報をつかんでいたので「山崎の戦い」の後、一旦は秀吉を頼って念願の上洛を果たそうとした。
しかし、義昭は秀吉の満々たる野心を察して柴田勝家と結ぶ。
しかし、天下の権を争った織田家重臣筆頭の柴田勝家も北の庄で自刃する。
勝家の敗因は、毛利氏を味方につけ、秀吉の背後を攻撃できなかったことにもある。
義昭も大きなダメージを受けた。
勝家に担がれたことは秀吉陣営に筒抜けだったから、柴田勝家の滅亡後は、義昭の政治的影響力は決定的に低下した。
特に毛利氏を初めとする諸大名を動員する権威を喪失したことが大きかった。
将軍の大権である軍勢動員権が実質的に義昭から消滅してしまったことである。
これをもって足利義昭の「鞆幕府」は事実上崩壊したと言える。